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38-7.『書紀』α群は粟田真人が述作した [38.日本書紀の述作者は誰か]

粟田真人は大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として出国し、10月には唐の朝廷に宝物を献じ、慶雲元年(704年)7月に帰国しており、703年10月に義浄により漢訳され『金光明最勝王経』を日本に持ち帰ったと思われる。旧唐書には、「真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美」とあり、長期に渡って唐に留学した経験を持っていれば、α群の述作者B1としてはピッタリである。 

『日本古代氏族の研究』の著者、佐伯有清氏は『書紀』の白雉4年5月の遣唐使学問僧として派遣された道観が、「道觀、春日粟田臣百濟之子」と記載されていることに注目し、また国史大系本の分注に「俗名真人」とあることから、「道観」は粟田真人であると指摘した。白雉4年(653年)の遣唐使では、13名の学問僧が派遣されているが、その内の3名にはカッコで示す割注がある。定惠(臣之長子也)・安達(中臣渠毎連之子)・道観(春日粟田臣百濟之子)。この3名全てが、誰々の「子」と紹介されている。 

道観と一緒に入唐した定恵は、大化の改新の立役者である中臣鎌足の長子で、弟が藤原不比等である。定恵は天智4年(665年)に唐船で帰国している。道観と安達は、定惠の学友であり、付き人であったと考えられる。定恵は入唐当時11歳であり、道観も同じ年頃であったのであろう。定恵は天智4年(665年)に唐船で帰国しており、道観の帰国も同じではないかと推察する。道観は12年間の留学生活を送ったのであろう。 

粟田真人(道観)は、学問僧として白雉4年(653年)の遣唐使船で入唐し、12年間の留学生活を送った。帰国後還俗して朝廷に仕え、天武10年(681年)には小錦下の位を授かり、持統3年(689年)には筑紫大宰として仕え、文武天皇大宝2年(702年)に遣唐使執節使となっている。粟田真人は、学問僧として唐に留学し、帰国後還俗して朝廷に仕えており、12年間の留学で正音・正格漢文が書ける能力があり、仏典にも通じ、経史を読んでおり、また『金光明最勝王経』を唐から持ち帰えっている。『書紀』α群の述作者B1としての条件を全て満足している。
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