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38-6.金光明最勝王経は粟田真人が持帰った [38.日本書紀の述作者は誰か]

粟田真人は大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として出国し、10月には唐の朝廷に宝物を献じている。この船に道慈も乗船していた。『宋史』日本伝には、「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ」とある。この記事から、粟田真人は経典を持ち帰るのを任務としていなかったという意見もあり、道慈が『金光明最勝王経』を持ち帰ったというのが通説となっている。 

粟田真人が唐の長安に滞在していた長安3年(703年)10月に、義浄が『金光明最勝王経』を完成している。『続日本紀』によると、大宝3年(703年)7月に、「四大寺に金光明経を読む令」が発せられている。四大寺(大官大寺・薬師寺・川原寺・飛鳥寺)に読経を命じた経典は、曇無讖が421年頃漢訳した『金光明経』のことであろう。『書紀』には、天武5年(676年)、天武9年(680年)、朱鳥元年(686年)、持統6年(692年)、持統8年(694年)、持統10年(696年)に、『金光明経』を読むことが宮中や諸寺で行われたと記載してある

 
文武天皇の大宝3年(703年)の記事もこの延長であろう。『金光明経』は「護国経典」として尊重され、経典を宮中や諸寺で読むことが行われていた。宮中で読まれていたことは、朝廷に仕える官吏は「護国経典」としての『金光明経』を認識していたのである。粟田真人は朝廷の中枢にいて「護国経典」としての『金光明経』を理解していたと思われる。 

新羅の金思譲が703年10月に完成した『金光明最勝王経』を、704年3月に新羅に持ち帰ったことからすると、702年10月に長安にいて、704年7月に帰国した粟田真人が『金光明最勝王経』を持ち帰ることは可能である。遣唐使執節使として書籍を持ち帰る任務を持っていた粟田真人が、『金光明最勝王経』が義浄により漢訳されたという情報を長安において得たならば、その経典を持ち帰ろうとしたのは当然のことである。粟田真人が『金光明最勝王経』を日本に持帰ったと考える。
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