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33-4.600年遣隋使は無かった [33.隋書倭国伝の遣隋使を解く]

『隋書』の[607年遣隋使]の記事が[608年遣隋使]の記事であったとすると、『隋書』の第一回遣隋使、[600年遣隋使]の記事は、[607年遣隋使]の事柄であったと考えられる。「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天いまだ明けぬ時、出でて政を聴き、日が昇れば政務を停めて、弟に委ねる。」と答えたのは小野妹子であり、これに対し「これは道理にかなっていない」改めるよう訓令したのは、煬帝ということになる。斐世清が翌年倭国に行ったのは、この訓令を倭王に伝えるためであった。 

『書紀』によると、小野妹子は帰国の途中、煬帝から授かった国書を百済で掠め取られたと奏上している。この国書紛失事件は、国書には天皇に対して非常に無礼が書かれてあったので、小野妹子の造り事という説や、聖徳太子が考えた造りごと、あるいは書紀編纂者の造りごとと色々の説があるそうだ。江戸時代、朝鮮との外交の最前線にあった対馬藩は国書を偽造していた。国書を誤魔化しても、両国の仲を何とか取り持とうとするのは、外交の最前線を担う官吏がよく行う仕業である。小野妹子と同行して倭国に来た斐世清は、鴻臚寺掌客で対外折衝の実務官であった。斐世清は小野妹子をそそのかし、両国の関係を損なう事のないようにと、国書紛失事件をでっち上げたと考える。
 

そもそも、小野妹子が話した、小墾田宮における「朝庭」とよばれる推古天皇の政務・儀礼や、聖徳太子に委ねられた政務を「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天いまだ明けぬ時、出でて政を聴き、日が昇れば政務を停めて、弟に委ねる。」といい加減な訳をしたのは、斐世清であった。また、斐世清は中国の歴代の皇帝が全て男性であったことから、女王の存在を信じられず、「多利思比孤」と男王と訳している。煬帝の国書が「これは道理にかなっていない」改めるよう訓令したものであれば、斐世清にとっては、倭王に読まれたくない国書であった。
 

斐世清は倭国にいる間は大歓迎を受け、両国の間はうまく取りつくろえた。しかし、逆に煬帝の高圧的態度が倭国には伝わらず、倭国からの国書は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙
(つつが)なきや」となり、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼あり、再び聞くことなかれ」と国交断絶まで発展したと思われる。開皇20年の[600年遣隋使]は無かったと考えると、『隋書』と『書紀』の遣隋使に関する内容が一致し、年月の齟齬もなくなる。 

隋書は何故、開皇20年の倭国の遣隋使をでっち上げたのであろうか。618年に隋が唐に滅ぼされてすぐの、636年に隋書の本紀が編纂されている。隋書の本紀を編纂した魏徴(580~643年)は唐の政治家であるが、本人自身が隋のことを良く知っていた。そして、中国を統一した隋初代の高祖文帝(在位581~604年)は名君であり、二代目の煬帝(在位604~618年)は暴君で隋を滅ぼしたと認識していたと思われる。
 

魏徴は、高祖文帝の時代に朝鮮の高句麗・百済・新羅の三国が隋に朝貢しているのに、倭国が朝貢していないはずはない、また、蛮夷の国の倭国が、冠位十二階制度を独自で創設するはずはないと考えて、原史料を前倒しして、開皇20年(600年)の高祖文帝への遣隋使を捏造したと考える。
 
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白壁

遣唐使もなしに大宝律令が突然作られ、その直後702年に遣唐使が派遣され、その後養老律令が成立するも757年まで放置されたとはどういうことなのでしょうか。それまでできなかった遣唐使がどうして突然できたのかも不思議です。また大化には養老律令の内容 = 大宝律令 が入っているようですし。
by 白壁 (2015-08-22 15:07) 

白壁

アスカ浄御原において川原寺が最重要な寺とされるのは、起源が隋からの導入であるからなのでしょうか。そのような寺が、710年以後に移設されることがなかったということはあり得ることでしょうか。王朝の経緯から興福寺が何時できたのか分からないような由緒はあまりにもおかしいと思うのですが。
by 白壁 (2017-10-31 04:05) 

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