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33-3.国書「日出づる処の天子」を解く [33.隋書倭国伝の遣隋使を解く]

『隋書』倭国伝[607年遣隋使]には、倭国の国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、「帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿曰く『蛮夷の書に無礼あり、再び聞くことなかれ』」とある。しかし、翌608年皇帝は斐清を倭国に派遣している。そして『隋書』は[608年遣隋使]に、「倭国は再び使者を斐清に随伴させて貢物を貢献させた。この後、遂に途絶えた」とある。この皇帝の言動には矛盾があるが、歴史研究者は、当時隋と交戦状態にあった高句麗が、倭国と接近するのを恐れたためとしている。 

『隋書』倭国伝の[607年遣隋使]にある「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙
(つつが)なきや」の記事と、『書紀』の[608年遣隋使]にある「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に申す。・・・尊(皇帝)は如何に穏やかかと想う」の記事は非常に良く似ている。 また、『隋書』の[607年遣隋使]にある「倭国は使者を朝拜に遣わし、並びに沙門(僧)数十人が仏法を学びに来た」の記事と、『書紀』の[608年遣隋使]にある「この時、唐に遣わした学生と学問僧の八名也」の記事は、僧数十人と学生・学問僧八名の違いはあるが良く似ている。 

『隋書』の[607年遣隋使]と『書紀』の[608年遣隋使]は、同じ事柄を述べているように思える。『隋書』の[607年遣隋使]にある倭国の国書は、608年に斐清に随伴して朝献した倭国の使者が持参したものであると考える。そうすると、『隋書』[608年遣隋使]の「倭国は再び使者を斐清に随伴させて貢物を貢献させた。この後、遂に途絶えた」の記事は、「倭国は再び使者を斐清に随伴させて貢物を貢献し、並びに沙門数十人が仏法を学びに来た。その国書に『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙
(つつが)なきや』とあり、帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿曰く『蛮夷の書に無礼あり、再び聞くことなかれ』。この後、遂に途絶えた。」となる。こうすると『隋書』と『書紀』の年月の齟齬もなく内容も一致する。『隋書』は意図的に改ざんしていると考える。 

『書紀』には推古22年(614年)に犬上君御田鍬・矢田部造を隋に派遣し、翌年百済の使いと共に帰国したとある。この遣隋使については『隋書』には載っていない。当時、隋と百済は良好な関係にあり、仲立ちを頼んだと思われるが、皇帝に謁見することが出来ず、隋の公式記録に載らなかったのであろう。
 

なお、小野妹子の帰国に伴い、煬帝が倭国に派遣したのは『隋書』には「斐清」、『書紀』には「斐世清」と記載されている。『隋書』に「世」を欠くのは、隋書が書かれた唐時代の太宗皇帝の諱「世民」の文字を避けたものである。「斐世清」の表記からしても『書紀』が正確であることが分る。

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