32-2.日本書紀の“表記の癖” [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]
聖徳太子について述べる前に、日本書紀の“表記の癖”について述べておきたい。飛鳥時代とは飛鳥に宮・都がおかれた時代で、崇峻天皇から始まっており、聖徳太子の父親の用明天皇は、古墳時代の最後の天皇ということになる。古墳時代に相当するのが、第10代の崇神天皇から第31代の用明天皇までで、書紀は23代の天皇と神功皇后の記事を記載している。これらの記事には、「天皇」という語が全部で821ヶ所に書かれてある。「天皇」という語が最も多い天皇は雄略天皇で129ヶ所、最も少ないのが成務天皇・反正天皇の8ヶ所である。
1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣から「辛亥年」「獲加多支鹵大王」の金象嵌された文字がX線検査より発見された。以前から知られていた熊本県菊水町の江田船山古墳出土の鉄剣に銀象嵌されてあった「治天下獲□□□鹵大王」の文字も、同じ「獲加多支鹵大王(ワカタキロ大王)」であることが分った。これらより「ワカタキロ大王」は、日本書紀で「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇」、古事記では「大長谷若建(おおはつせわかたけ)命」とされている雄略天皇に比定され、「辛亥年」は471年に定められた。これらより天皇は、古墳時代の全ての期間ではないかもしれないが、「大王(おおきみ)」と呼ばれていたことが分かる。
因みに、古墳時代の天皇の記事で、「大王」という語が使われている天皇を調べた。仁徳天皇1ヶ所。允恭天皇6ヶ所、雄略天皇1ヶ所、継体天皇1ヶ所、顕宗天皇2ヶ所、欽明天皇4ヶ所であった。欽明天皇の4ヶ所は百済の聖明王に対して使用している。残りの5人の天皇は、全て前天皇が崩御してから即位するまでの間に使用されている。書紀は「天皇」という語は、即位後に使うことを原則にして書かれている。
「天皇」という語が使われ始めた時期については、天武朝というのが通説であるが、推古朝からという説もある。しかし、書紀は全ての時代に対して、「天皇」に相当する地位の人であれば、たとえ「大王」と呼ばれていても「天皇」と表記している。このことは「天皇」の語のみならず、他の呼称についても言えることである。この書紀の“表記の癖”を理解すると、書紀が書いた史実が見えてくる。
1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣から「辛亥年」「獲加多支鹵大王」の金象嵌された文字がX線検査より発見された。以前から知られていた熊本県菊水町の江田船山古墳出土の鉄剣に銀象嵌されてあった「治天下獲□□□鹵大王」の文字も、同じ「獲加多支鹵大王(ワカタキロ大王)」であることが分った。これらより「ワカタキロ大王」は、日本書紀で「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇」、古事記では「大長谷若建(おおはつせわかたけ)命」とされている雄略天皇に比定され、「辛亥年」は471年に定められた。これらより天皇は、古墳時代の全ての期間ではないかもしれないが、「大王(おおきみ)」と呼ばれていたことが分かる。
因みに、古墳時代の天皇の記事で、「大王」という語が使われている天皇を調べた。仁徳天皇1ヶ所。允恭天皇6ヶ所、雄略天皇1ヶ所、継体天皇1ヶ所、顕宗天皇2ヶ所、欽明天皇4ヶ所であった。欽明天皇の4ヶ所は百済の聖明王に対して使用している。残りの5人の天皇は、全て前天皇が崩御してから即位するまでの間に使用されている。書紀は「天皇」という語は、即位後に使うことを原則にして書かれている。
「天皇」という語が使われ始めた時期については、天武朝というのが通説であるが、推古朝からという説もある。しかし、書紀は全ての時代に対して、「天皇」に相当する地位の人であれば、たとえ「大王」と呼ばれていても「天皇」と表記している。このことは「天皇」の語のみならず、他の呼称についても言えることである。この書紀の“表記の癖”を理解すると、書紀が書いた史実が見えてくる。
2013-05-17 00:00
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コメント(1)
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古代史は石渡信一郎から始まります。
すなわち 雄略大王はいなかったからスタートするべきです。
C14炭素分析なんて いくらでもごまかせます。
で 半年まえに むらかみからむの以下のコメント思い出して下さい。
稲荷山鉄剣の辛亥の年は471年ではありません。531年です。
前回のコメント 抜粋
音韻変化の原則から『飛鳥(あすか)の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この石渡理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
どうか おねがいです。
石渡信一郎か林順治の本 読んでみてください。。
by むらかみからむ (2013-05-18 23:59)