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32-3.日本書紀は時代考証していない [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

『日本書紀』によると、孝徳朝の大化二年(646年)に大化改新の詔が発せられ、その中には地方行政区分を新たに「国―郡―里」に定めるとある。これらの「郡(コホリ)」および「里(サト)」の実態が、紀年と地名が書かれた荷札木簡から解明されている。市大樹著「飛鳥の木簡―古代史の新たな解明」によれば、藤原宮(694~709年)跡から多数の荷札木簡が出土し、それらから、地方行政区分の「コホリ」は700年までが「評」、大宝律令が完成した年の701年からは「郡」と書かれていて、例外は全くないと記載している。

D3 飛鳥石神遺跡.jpgまた、飛鳥石神遺跡から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、飛鳥浄御原令の編纂が始まった681年から683年頃であることが分った。断定されていないが、646年の大化の改新で実施されたのは「国―評―五十戸」制であったが、『日本書紀』は大宝律令の知識にもとづいて、大化改新の詔を「国―郡―里」と表記したとしている。市大樹氏は、「大化改新の存在を否定する見方に共感を抱いていたが、飛鳥の木簡を自ら整理するようになると、大化の改新も基本的には認めてよいのではないか」と、思うようになってきたと書かれている。 

『書紀』の「郡」の表記は、古墳時代の天皇(崇神天皇~用明天皇)では71ヶ所、飛鳥時代(大宝令前)では121ヶ所である。書紀は「郡」に相当する行政区分が「評」呼ばれていても「郡」と表記している。『書紀』の「評」の表記は、継体天皇24年に百済の地名として「背評」が2ヶ所出て来るだけだ。因みに朝鮮語の「評」は「郡」の意味だそうだ。また、地名については
書紀編纂当時の地名で表記してあり、その時代に使われていた地名であるかという時代考証はしていない。歴史学者は豊富な知識があるがゆえに、『書紀』の”表記の癖”の大きな落とし穴に落ちて、「日本書紀は捏造されたもの」との結論を出してしまうのであろう。
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