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B-10.風土記に伝承された景行天皇 [Blog:古代史散策]

長田王は天武天皇の孫の一人とされているが定かではないようだ。長田王は729年に衛門督という官職に就いている。衛門督は宮城の門(朱雀門等)を警備する衛門府の長官である。衛門府の下には隼人司があって、薩摩・大隅の隼人が勤務していた。隼人は警備の他に、宮廷で「隼人舞」という逆S字の盾を持った歌舞を披露している。隼人は男女各々40人が6年交代で派遣されており、その管轄は大宰府が行っていた。 

万葉集の水島を詠った歌の前書きにある「長田王、筑紫に遣はさえて」とは、729年に衛門督になった長田王が新任の挨拶で大宰府に赴いたと考える。当時の大宰府の長官は大伴旅人(長官就任:724~729年)であった。大伴旅人は万葉歌人であり、720年には将軍として隼人の反乱を鎮圧している。
 

和銅6年(713年)に、諸国に風土記を編纂する勅命が下っている。九州諸国の風土記は11ヶ国あるが、近年の研究から11ヶ国以外に九州全体を一書にまとめた「筑紫風土記」の存在が明らかとなった。筑紫風土記は大宰府で編纂されたと考えられている。行政区分の表記について見ると、諸国の風土記では「郡
(こおり)」、筑紫風土記は「県(あがた)」である。景行天皇が筑紫巡幸で立寄ったのは「県」である。これらからすると、日本書紀は筑紫風土記を参照にして編纂されたと考えられる。 

大宰府の長官として筑紫風土記を熟知していた大伴旅人は、景行天皇の筑紫巡幸の話を、天皇家の血筋を引く長田王に語ったと考える。その話に感銘した長田王は水島を訪ねたのであろう。大伴旅人と長田王が語り合ったことを証明する歌が万葉集にある。

 大伴旅人:隼人
(はやひと)の 瀬戸の磐も 鮎走る 芳野の瀧に なほ及()かずけり
 長田王 :隼人(はやひと)
 薩摩の瀬戸を  雲居なす  遠くも吾は  けふ見つるかも 
C16 隼人の瀬戸.jpg
長田王が詠った歌は「雲居なす遠く」の見えていない「隼人の瀬戸」を詠っており、「隼人の瀬戸」を間近に見て、その素晴らしさを詠んだのではない。隼人の瀬戸は野坂の浦沖から約35㎞離れた遥か遠くにある。
長田王は野坂の浦から水島に向かう船上で、遥かかなたのあの方向に「隼人の瀬戸」があるのだと、大伴旅人が語ってくれた隼人の話の余韻を詠ったのであろう。 

肥前風土記や豊後風土記には「纏向の日代の宮で天下を治めになった大足彦天皇」の文句で始まっている、景行天皇に関する逸話が多くある。景行天皇の日向から筑紫巡幸は、創作されたものではなく、日本書紀編纂以前から九州に各地に伝わる伝承であったと考える。日本書紀は古事記より正確に史実を伝えていた。私の年表では景行天皇の即位は308年、卑弥呼が亡くなって60年後であり、邪馬台国は景行天皇からすると曾祖父母の時代の事である。「国思歌」は、神武天皇の故郷、日向の邪馬台国を褒め称えた歌である。
  

  愛
しきよし 我が家の方ゆ 雲居立ち来も 倭は 国のまほらま  
  畳
づく青垣 山れる 倭し麗し 命の全けむ人は 畳薦      
  平群
の山の 白橿の枝を 髻に挿せ 此の子


ああ、すばらしい眺めだ、わが家の方から 雲が湧いて流れてくることよ。我が先祖の故郷、邪馬台国は最も優れた国だなあ。青々とした山が重なり、垣のように取り囲んでいる。邪馬台国の都は素晴らしく美しい。生命力の溢れた子供たちよ、敷物が重なったような、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿せ。この子よ。

 
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