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B-11.日本書紀の編年は精緻 [Blog:古代史散策]

「B-8.景行天皇と日本武尊の時代」で示した年表は、日本書紀の編年を一定の法則に従って、トータル900年短縮して自動的に組み立てたものだ。その「一定の法則」とは「2代~9代の欠史8代の天皇は不在とする。中国・百済の史書の挿入記事は編年より除く。記事と記事の間の空白年数が1年は1年間、2年は2年間、3~14年は1年間、15年~以上はゼロとする。」というもの方法であり、日本書紀の全ての記事の年代を特定することが出来る。 

この事はカテゴリー「1.日本書紀の編年を解く」の「1
-6.日本書紀の編年を解読」に詳しく記載している。この記事を読まれた方から「空白年数は、1年は1年間、2年は2年間、3~14年は1年間、15年~以上はゼロとして、その頻度を掛けた合計、この根拠は何でしょう? 恣意的な計算方法で後の年代あわせに有利なやり方に過ぎないと言う印象を受けます。」というコメントを頂いた。このコメントの返答は既に掲載しているが、これは私の古代史の時代感に大きく関わる問題なので本文に掲載した。 

日本書紀は天皇が即位した年を、太歳としてその年の干支を記載し、記事の多くには在位年と月日が、●年○月△△朔□□と記載されている。△△には○月の朔(ついたち)の干支が記載されている。書紀に記載された100歳を超える天皇について、その即位と崩御した●年○月1日の干支を調べてみた。小島荘一氏の「日本書紀の編纂における暦日の設定」に書かれているが、神武紀から安康紀までは、書紀は儀鳳歴で歴日の干支を書いているそうだ。私には儀鳳歴で歴日の計算は出来ないので、
Webの「高精度計算サイト」にある「旧暦カレンダー」「干支カレンダー」で、書紀記載の年月(旧暦)を新暦の年月に直し、その月の朔(ついたち)の干支を探し、書紀記載の干支が正しいかチェックした。
 
         年齢 |太歳
即位年月  朔干支 Web(新暦)| 崩御年月 朔干支 Web(新暦)
  景行天皇
  106 |辛未  717   己巳  同左(8/14)| 13011月 乙酉  同左(12/18)
  成務天皇
  107 |辛未 1311  甲申  同左(2/15)|  1906月 己巳  同左(7/20)
  応神天皇
110 |庚寅 2701月 丁亥 同左(2/  8) |  3102    甲午   乙未(3/18) 

「儀鳳歴」と「高精度計算サイト」で違うのは、応神天皇の崩御の2月1日の干支だけだ。「甲午」の次の日が「乙未」なので1日違いだけである。「儀鳳歴」と「高精度計算サイト」では、そのほとんどが△△は同じ干支なのだが、閏月と閏日の設定が違うので、たまに前後1日とか前後丁度1月の違いが生ずる場合があり、応神天皇の崩御の日はこのためである。日本書紀は非常に精緻に編年されていることが分かる。

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