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B-9.景行天皇の筑紫巡幸 [Blog:古代史散策]

景行天皇は襲国を平定した後、京(福岡県京都郡)に向かわれようとして、筑紫の国を巡幸している。その道筋は日向国子湯県(宮崎県西都市)を出発し、夷守(ひなもり)小林市)から熊県(熊本県人C13 景行天皇日向.jpg吉市)に至り、葦北(芦北郡)から舟に乗り、
火国の八代県(八代市)を通り高来
(たかく)県(長崎県南高来郡)より、阿蘇国の玉杵名邑(熊本県玉名市)に至っている。筑後国の御木(みけ)(福岡県三池郡)に高田の行宮を作り、八
女県(八女市)から的邑
(いくはむら)(浮羽郡)に行っている。 

私は魏志倭人伝の「南至邪馬台国女王所都水行十日陸行一月」の解釈として、伊都国を吉野ヶ里遺跡とし、邪馬台国を西都市としてその間のルートを、
吉野ヶ里から有明海を舟で南下し、熊本県芦北町佐敷から陸路で人吉市・小林市を通り、西都市に向かう道とした。このルートは、景行天皇が日向国の子湯県から筑紫国に向かったルートと同じである。 

「景行天皇は葦北から舟に乗り、火国の八代県に向かう途中で小島に立ち寄っている。その時、天皇が水を所望されたが島には水が無かった。そこで、山部阿弭古の祖の小左
(おひだり)が天地の神々に祈ると冷たい水が崖のそばから湧いて出て来た。そこで小島を水島と名づけた。」という逸話が日本書紀に書かれている。水島は八代市の球磨川支流の河口にある小島とするのが通説である。この水島を詠った歌が万葉集にある。
C14 水島.jpg
長田王
(おさだおうきみ)、筑紫に遣はさえて、水島を渡る時の歌二首 
  葦北の
野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ    3-246
  芦北の野坂の浦から船出して、水島に行こう。波よ、決して立ってくれるな
  聞きしごと まこと貴く (くす)しくも 神さびをるか これの水島  3-245
  かねて評判に聞いた通り、本当に尊く、不思議なほど神々しい、この水島は。 
C15 野坂の浦.jpg
二首の歌は明らかに景行天皇の日向から筑紫巡幸を意識して詠われたものである。長田王(生年未詳~737年)がこの2首を詠ったのは、慶雲2年(705年)とか、養老4年(720年)など諸説あるが典拠は無いようだ。この二首が詠われた時期と事情を知ることで、景行天皇の日向遠征・筑紫巡幸が伝承か、それとも創作かが判断出来ると考える。

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