SSブログ

B-7.「国のまほらま」は邪馬台国の都 [Blog:古代史散策]

日本書紀では景行天皇は熊襲征伐として九州遠征を行っている。天皇は周芳(すは)の婆麼(さば)(山口県防府市左波)から豊前国の長狭(ながさき)県(福岡県行橋市長尾)に行き行宮を建て、その地を京(みやこ)(福岡県京都郡)と名付けている。そして碩田(おおきた)国の速見邑(大分県速見郡)からに日向(ひむか)国に向かっている。 

日本書紀には「11年11月、日向国について行宮をたててお住みになった。これを高屋宮という。」、「13年夏5月、ことごとく襲国を平らげられた。その国に美人があり御刀媛(みはかしひめ)という。これを召して妃とされ豊国別皇子を生んだ。これが日向国国造の先祖である。」、「17年3月12日、子湯県においでになり、丹裳小野
(にものおの)に遊ばれた。そのとき東方を望まれて、『この国はまっすぐに日の出る方に向いている』と言われた。それでその国を名づけて日向という。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。」とあり、「国思歌」が詠われている。 

ああ、すばらしい眺めだ、わが家の方から 雲が湧いて流れてくることよ。我が先祖の故郷、邪馬台国は最も優れた国だなあ。青々とした山が重なり、垣のように取り囲んでいる。邪馬台国の都は素晴らしく美しい。生命力の溢れた子供たちよ、敷物が重なったような、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿せ。この子よ。
 
C6 宮崎県西都市.jpg
C6は宮崎県西都市の地図。西都原古墳群のある台地が“丹裳小野”、高屋には“子湯”にあたる高屋温泉があり、黒貫寺は“高屋宮”があったとの伝承がある。都於郡城址が“野中の大石”にあたる。都於郡城は室町時代から戦国時代にかけて日向国を治めた伊東氏の居城であった。「春は花 秋は紅葉に帆を上げて 霧や霞に浮舟の城」が詠われたように、“我が家の方ゆ 雲居立ち来も”の情景が似合う。
 

C7 西都原古墳群.jpgC8 都於郡城址.jpg


 


                                  

都於郡城の眼下には平郡の平地が広がる。平郡は奈良時代には児湯郡“平群”郷であった。平郡は“畳づく青垣 山籠れる”のように山々に囲まれ、“畳薦 平群の山”のような丘陵もある。平郡の地に邪馬台国の都があったと考える。「国思歌」は明るく、野中の大石に登って詠んだ歌の方が似合っている。景行天皇が「国のまほらま」と褒めた讃えたのは、神武天皇の故郷、邪馬台国の都であったと考える。

C9 国思歌の地.jpg


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。