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B-6.国思歌:古事記 VS 日本書紀 [Blog:古代史散策]

日本の歴史を書いた最も古い書は古事記であり、奈良に都が遷都された直後の712年に太安万侶により編纂されている。昨年は古事記完成より1300年目ということで、各地で色々な催し物が行われた。日本書紀は古事記が編纂された8年後に、舎人親王により奉上されている。戦後、古事記・日本書紀は歴史の対象ではないと、歴史・考古学者から無視しされて来たが、近年考古学の発掘で記紀に記載された事柄と一致するものが多く出土して、記紀が見直されつつある。 
C4 景行天皇陵.jpg
古事記と日本書紀を対比すると、景行天皇とその息子の日本武尊
(やまとたけるのみこと)の行動に大きな違いがある。古事記では、日本武尊が熊襲征伐・出雲建討伐・東国征伐を行っている。日本書紀では、景行天皇自身が日向国に赴き襲国を平定し、筑紫の国を巡幸している。帰京後に熊襲が再び背いたので、日本武尊を熊襲征伐に派遣し、その後に東国征伐に向かわしている。日本武尊が出雲建討伐した話は、日本書紀には記載されてなく、景行天皇が九州遠征した話は、古事記には記載されていない。 

C5 日本武尊白鳥陵.jpg本武尊が東国征伐から帰国の途中で、能煩野(三重)で亡くなった話は日本書紀と古事記は同じである。「国思歌(くにしのびうた)
」でみると、古事記では日本武尊の辞世の歌として「遠くの国を思い懐かしむ歌」となっているが、日本書紀では景行天皇が日向で詠んだ歌として出て来る。「国思歌」を通して、古事記と日本書紀のどちらが史実を書いているか考えてみたい。 



「愛
しきよし 我が家の方ゆ 雲居立ち来も 倭(やまと)は 国のまほらま 
 畳(たたな)
づく青垣 山(こも)れる 倭し麗し 命の全(また)けむ人は 
 畳薦(たたみこも) 
平群の山の 白橿(しらがし)の枝を 髻(うず)に挿せ 此の子」 

古事記には「国思歌」の後に、日本武尊が死ぬ間際に詠われた歌がある。
「嬢子(おとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀(たち) その大刀はや」
嬢子は尾張国造の女宮簀媛(みやすひめ)で、剣は熱田神宮の草薙の剣である。日本武尊はこの剣を宮簀媛の所に置いて大和に帰ろうとしていた。この歌は、剣を置いてきた事を後悔して詠んだと解釈されているが、私はそうではなく、大刀の様に宮簀媛の側に居たいという、離別を悲しむ歌と考える。日本武尊は景行天皇の次男ではあるが、その器量から皇太子なるべき人と目されていた。それだけに、大和に帰らねばならなかったのだろう。日本武尊の正室の子が後の仲哀天皇であり、側室への思いを辞世の歌にするにはいかず、古事記は「国思歌」を辞世の歌として挿入したと考える。
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