SSブログ

B-8.景行天皇と日本武尊の時代 [Blog:古代史散策]

近つ飛鳥博物館の昨年度秋季特別展「南九州とヤマト王権―日向・大隅の古墳―」では、日向・大隅の主な古墳群、持田古墳群(高鍋町)、西都原古墳群(西都市)、生目古墳群(宮崎市)、塚崎古墳群(鹿児島県肝付町)などは、大和の影響を受けた前方後円墳が、四世紀に造ら始めているとしていた。 
C10 私の年表.jpg
右の年表は日本書紀の編年を一定の法則(2代~9代の欠史8代の天皇は不在とする。中国・百済の史書の挿入記事は編年より除く。記事と記事の間の空白年数が1年は1年間、2年は2年間、3~14年は1年間、15年~以上はゼロとする。)に従って、トータル900年短縮して自動的に組み立てたもので、日本書紀の全ての記事の年代を特定出来る。私の年表によれば、景行天皇が日向国に赴き襲国を平定したのは316年になる。襲国とは宮崎県南部と鹿児島県の大隅半島である。景行天皇の襲国平定年代と、大和の影響を受けた前方後円墳が日向・大隅で4世紀から造ら始めていることと、整合性が取れている。
 


C11 城の山古墳.jpg考古学会では4世紀の王権について「ヤマト王権」と書いても「大和王権」とは書かないように、景行天皇の実在を考えていない。今年の9月に、新潟県胎内市の4世紀前半の「城の山古墳」から、銅鏡・勾玉・大刀と矢を入れる革製の「靫
(ゆぎ)」が発掘され、近畿地方の4世
紀の古墳
(雪野山古墳等)の副葬品と同じ組み合わせと発
表された。新聞の見出しは「大和政権
新潟まで影響力」
と「ヤマト」でなく「大和」を使い始めた。
 

C12 日本武尊東征.jpg日本書紀では、景行天皇の息子の日本武尊は東方遠征を行い、駿河・上総・常陸を経て甲斐に行き、そこで靫部(矢を背負う者、兵士)を大伴連の先祖の武日に賜っている。その後、甲斐から武蔵・上野を巡り、碓日坂を通り信濃に進んでいる。上野では吉備武彦を越の国に遣わし、その地形や人民の帰順を調べさせている。吉備武彦が越の国で豪族に鏡・大刀や「靫
(ゆぎ)」を与えたとすると、「城の山古墳」の副葬品と繋がってくる。私の年表によれば、日本武尊の東方遠征は326年~329年であり、4世紀前半の城の山古墳と、古墳年代で整合性が
取れている。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。