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29-3.響灘のガラス塊が語るもの [29.ガラスを透して古代を見る]

「27-15.戦国の鉛バリウムガラスを解く」では、中国の戦国時代に、黒曜石に白鉛鉱(PbCO3)と毒重石(BaCO3を加えて、鉛バリウムガラスを作ったと結論付けた。黒曜石からガラスを作る発想は戦国時代に生れたと考える。御堂遺跡のガラス塊は、黒曜石と木灰から作った高アルミナ中石灰ソーダガラスであり、その製作年代は戦国時代、歴博の年代観で言えば弥生前期末から弥生中期初めのものであると考えられる。 

御堂遺跡から出土したガラス塊が、後世の混入品ではなく、遺跡で人々が暮らしていた時代の物であると仮定すると、高アルミナ中石灰ソーダガラスが、製作地は別として、縄文晩期に存在したことになる。縄文晩期は歴博の年代観でいえば紀元前1200~前900年頃、中国では商(殷)の時代で、青銅器は存在するがガラスは存在していない時代であり、大きな矛盾が生じる。
 

御堂遺跡は縄文晩期の遺跡とされているが、その根拠は遺跡から出土した土器片の形状と、遺跡内に存在する木棺墓の形態と木組みの仕方から推定されたものである。しかし、御堂遺跡を弥生時代前期であると捉えている学者もいる。それは遺跡内にある遺構の一つの埋土から弥生式土器が出土していること、木棺墓の時期が弥生前期まで下る可能性があるからだ。
 

話は変わるが、大阪府立弥生文化博物館では平成23年度秋季特別展で「弥生文化のはじまりー土井ヶ浜遺跡と響灘周辺」を催し、冊子を発行している。図41がその冊子で取り上げた遺跡である。この図にガラス塊が出土した御堂遺跡を★印で加筆した。響灘周辺の遺跡からは、弥生時代ではあるがガラスに関係する遺物が出土している。
 

G41 響灘弥生遺跡.jpg多数の渡来人系弥生人骨が出土した、①の弥生前期の土井ヶ浜遺跡からは、アルカリ石灰ガラスの小玉が出土した。②の弥生前期の沖田遺跡からは、大洞A式土器が出土している。この大洞A式土器は、土井ヶ浜と同じアルカリ石灰ガラスを出土した、青森県の亀ヶ岡遺跡で多く作られた土器である。
 

⑪の弥生中期初頭の栗浜遺跡からは細形銅剣と多鈕細文鏡が、④山の神遺跡からは日本最古の鋳鉄製農具とされた鋤先が、弥生中期前半の⑭甲殿遺跡からはトンボ玉の鉛バリウムガラスが出土している。韓国では細形銅剣・多鈕細文鏡・鋳造鉄器・鉛バリウムガラスの四点セットが紀元前3世紀頃から共伴して出土している。
 

⑬の武久浜遺跡からは、ガラス小玉と中国の半両銭が共伴している。半両銭は前漢の四銖半両銭で紀元前175~120年に鋳造されたものである。⑯の下七見遺跡からは、中期初頭の土坑からガラスの勾玉鋳型が、また別の土坑からトルコブルーの小玉が出土している。ガラスの勾玉鋳型は北部九州でも中期後半にならないと出現していない。響灘周辺の地区はガラスから見ると先進地区であったと思われる。
 

このようなガラスと関わりのある弥生遺跡の、真っただ中にある縄文晩期の御堂遺跡から、縄文土器と共伴してガラス塊が出土している。このガラス塊を近代ガラスが方含層に混入したと、片付けるわけにはいかない気がする。御堂遺跡の年代も推定の域を脱してないように思えるし、また17m離れた二つの土坑で同じ混入が起こったとすることにも疑問がある。
 

御堂遺跡が縄文晩期の遺跡か、それとも弥生前期の遺跡か、また前期のいつ頃の遺跡か、その決着が付く日まで、御堂遺跡から出土したガラス塊が語るものは聞こえてこない。

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