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26-2.インドと交易したのは哀牢夷 [26.インディカ、5千年の旅]

5世紀の宋の時代に編纂された「後漢書、西南夷列伝」よれば、王莽が前漢を滅ぼし、新を建国すると天下は乱れ、益州郡の夷も団結し反乱を起こしている。その反乱は懐柔策で収まるが、後漢の建武18年(42年)には、西南夷の頭目の棟蚕が昆明・滇池など益州六県の夷と共に反乱を起こす。二年間にわたる反乱も、将軍劉尚により鎮圧され、夷の頭目の棟蚕が不韋(保山市)で討ち取られ、益州の諸夷が平定されている。 

「後漢書」は益州の諸夷が平定された話の後に、突然に「哀牢夷」の話が出て来る。「哀牢夷の先祖は、哀牢山に住んでいた沙壱という娘が、川で魚を捕っているとき、沈んでいる木に触り懐妊し十人の男子を産む。この沈木が龍となって現れた。子供達は驚き逃げ去るが、末っ子は逃げず龍の前に座り、龍から頭を舐められた。この子が「九隆」と名づけられ、長じて哀牢国の王となる。九隆や兄弟たちの子孫は、あちこちの谷の邑に散在している。それらの邑は最果ての地で、山川が険しく深く、古来より未だ中国に交通していない。」とある。
 

B84 雲南地図.jpg哀牢夷発祥の地である哀牢山は、越(ベトナム)に流れ込む元江(ベトナム:紅江)の上流にあり、その東側には滇国(昆明市)がある。それらより、哀牢夷は滇越と呼ばれたのであろう。また、哀牢夷はタイ族の先祖で、怒江の西側の徳宏タイ族自治州の地域を支配していたと考えられている。史記に出て来る、「西方千里ばかりのところに象に乗る滇越という国があって、蜀の商人がひそかに出かけて交易をしている」の「滇越」こそ、ミャンマー(ビルマ)に隣接する徳宏タイ族自治州の地域に住む、タイ族の先祖の哀牢夷であるとの定説が生れている。
 
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