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26-1.西南シルクロードはあったか [26.インディカ、5千年の旅]

5千年前頃、タイのコラート台地で生れたインディカ米が、インドや中国に伝播したルートを探ることは、まさしく人の移動を探ることであり、民族の移動や交易に関わる歴史の問題である。ここで、イネの問題から離れて、紀元前のアジアにおける人の移動・交易について考えて見る。交易と言えば、我々がすぐ思い浮かぶのはシルクロードである。西安から砂漠のオアシス都市を通り、ローマまで繋がっていたシルクロードは、前漢の武帝(紀元前156~87)が、匈奴の南下を牽制するため、タクラマカン砂漠の東端の敦煌付近にあった月氏国と同盟を結ぼうと、張騫(ちょうかん)を西域に派遣したことに始まる。 

B81 西域.jpgB81 西域1.jpg張騫の目指した月氏国は匈奴に侵略され、敦煌の地を追われ西へと移動し、タクラマカン砂漠を横断、パミール高原を越えて大夏(アフガニスタン北部)の地に大月氏国を建国していた。そのため、張騫は月氏国に辿りつく前に匈奴に捕捉され、10年間の拘留生活を送った。その後彼は脱出し、大宛国(パミール高原)を経て大夏にあった大月氏国に辿り着いた。しかし、大月氏国は匈奴と離れており、争いをする気が無く、張騫は当初の目的を達せないまま、出発より十数年後に帰国した。

 B82 邛の竹.jpg張騫の持ち帰った西域の国々の地理・民族・物産などの情報は、その後、漢と西域とを結ぶ、交易の大動脈となったシルクロードの発展の基盤となった。しかし、張騫は当初このタクラマカン砂漠を行くルートは推奨しなかった。張騫は武帝に、「大夏に居た時、蜀の布と邛の竹杖を見た。何処で手に入れたかと聞くと、大夏の東南数千里にある身毒国(インド)の市場で蜀の商人から手に入れたと。邛の西方ニ千里ばかりの所に身毒国がある。大夏は中国を慕っているが、匈奴が漢への道を隔絶している。蜀と身毒国を通じれば、道は便利で近い。」と進言した。「蜀の布」とは絹布のことで蜀が原産地。「邛の竹」は蜀の西の山岳地帯「邛」に生えている、節が算盤珠の形をした羅漢竹と呼ばれる竹のことである。

 武帝はこの進言を受けて、使者を西夷の地に派遣したが、蛮族に道を阻まれ誰も身毒国へ通じる道を見つけられなかった。ただ、滇国(昆明市)の嘗羌(しようきょう)王だけは使者を逗留し、1年あまりにわたって配下の者を西方に派遣し探索させた。身毒国へ通じる道は見つからなかったものの、「西方千里ばかりのところに象に乗る滇越という国があって、蜀の商人がひそかに出かけて交易をしている」との情報を得た。そこで、武帝は兵を派遣し、蛮族の筰・雟(ずい)・邛を支配下に置き漢の役人に治めさせた。元封2年(紀元前109年)には、滇国(昆明市)王に「王の印」を賜い、滇王を益州郡の君長とした。しかし、漢の使者を殺略した昆明国(大理市)は、あくまでも漢と敵対し、漢の支配下に入ることがなかった。 

これらは前漢の武帝の時代に司馬遷により編纂された歴史書「史記」に記載されている。昆明市の南に滇池という中国で第6番目に大きい湖がある。この滇池の南端にある石寨山から50基あまりのB83 雲南金印.jpg青銅器時代の王墓が発掘されている。その6号墓から「滇王之印」の金印が発掘され、「史記」の記述が正確なことがわかる。これらより、「史記」が記載する「西方千里ばかりのところに象に乗る滇越という国があって、蜀の商人がひそかに出かけて交易をしている」という情報も、史実であったと考えられている。 

蜀のあった四川省の成都から、金沙江(長江上流)の迂回道である霊関道或いは五尺道を通り、雲南省の大理市に出て、瀾滄江(メコン川上流)と怒江(タンルイ川上流)を横断。徳宏タイ族自治州の騰沖市から、ミャンマー北部のカチン州を横断。インド東部のアッサム州出て、ヒマラヤ山脈の裾野を流れるブラマプドラ川沿いに西に進み、ガンジス川中流にあるインド(身毒国)の都・パータリプトラ(パトラ)に行く、西南シルクロード「蜀身毒道」が、シルクロードが開かれる以前に存在していた。そして、三星堆遺跡出土の子安貝、雲南省の青銅器・貯貝器に伴う子安貝も、このルートを通ってインドから来たと考えられている。


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