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26-3.西南シルクロードはなかった [26.インディカ、5千年の旅]

私は「滇越」が哀牢夷であり、タイ族であるが、紀元前には徳宏タイ族自治州の地域には住んでいなかったと考える。後漢書は哀牢夷の出自の後に、哀牢夷の賢栗王について書いている。この文章の解釈が哀牢夷の支配していた地域を明らかにするために非常に重要な意味を持つと考え、私は後漢書を意訳した。赤字の所が定説と大きく違っている箇所である。 

建武二十三年(47年)、哀牢王の賢栗は兵を遣わして、箄船(竹で作った筏舟)に乗り、江(怒江)を南下した。漢は辺境の夷の鹿せよと命じた鹿く捕虜とした。この時、雷がなり激しい雨が降り、南風が吹き荒れ、河川が逆流して、二百里に渡って波が坂巻き、箄船が沈没して、哀牢の人が数千人溺死した。」 

B84 雲南地図.jpg「江(怒江)を南下した。漢は辺境の夷の
鹿せよと命じた」と訳した原文は「南下江漢擊附塞夷鹿」である。後漢書の唯一の訳本である岩波書は「南のかた江、漢を下り、附塞の夷の鹿を撃たしむ」として、注釈に「江
は長江、漢は漢水」とある。
古来より未だ中国に交通していない哀牢夷が、長江や漢水(湖北省)を筏舟で下るはずがない。岩波書は間違っていると考える。哀牢夷が住んでいる地域は、哀牢山脈より西の地域であると考えると、大きな河は瀾滄江と怒江になる。瀾滄江はこれらの文章のすぐ後に出て来ることからすると、怒江を南下したことになる。怒江は流れも速く、両岸は切り立った絶壁が続き、筏舟が沈没した状況が似合っている。 

中国の歴史書には句読点はない。句読点の打ち方で意味が変わって来る。
南下江漢擊附塞夷鹿」とすると、「漢擊附塞夷鹿」は、漢が辺境(附塞)の夷の鹿を撃った事になる。鹿を撃ったのは、哀牢王の賢栗であるから、「漢辺境の夷の鹿せよと命じた。」と解釈した。哀牢夷の支配地は瀾滄江と怒江に挟まれた地域と哀牢山脈と瀾滄江に挟まれた地域で、後の永昌郡であったと考える。哀牢夷は、建武18年から21年の益州の反乱には加担していない。しかし建武21年正月、反乱軍の頭目の棟蚕は、瀾滄江西側の哀牢夷の地の不韋(保山市)で将軍劉尚により殺されている。正月(2月)は乾季であり、瀾滄江が渡渉できたのであろう。後漢は哀牢夷に不韋(保山市)の地の割譲を要求していたと思う。その代り、怒江の西側にある鹿夷の地を攻め落とせば、哀牢夷の支配地として認めると言ったのではあるまいか。 

賢栗王はまた六王と多くの人を遣わして鹿を攻めた。鹿は戦いに挑み六王を殺した。哀牢の長老が六王を共に埋めた。夜に虎が出て来て、その屍を食べた。余衆(鹿)は驚き恐れ引き去った。長老は『我が一族は古来より自ら辺境の地に入って来た。今鹿を攻め天誅を被った。中国に聖帝がおられ、天がお助け下さったのは明らかである。』と言った。建武二十(51年)、栗等は遂に一族2770戸・17659人を率い、太守鄭鴻の所に詣り、内属することを求めた。光武帝は栗等を封じて君長とした。これより、毎年朝貢している。」 

余衆(
鹿)は驚き恐れ引き去った」の原文は、餘衆驚怖引去」である。驚き恐れ引き去った「余衆」とは、哀牢夷かそれとも鹿夷かという問題である。岩波書には余衆」と読み下しているだけで、その答えは書いていない。後漢書の編纂以前に、巴・蜀・漢中の地理史が書かれている「華陽国志、南中志」には、「哀牢人驚怖引去」とあり、引き去ったのは哀牢人となっている。 私はこれらの解釈に疑問がある。その理由は、その後に続く長老の言葉、「今攻鹿輒被天誅中國其有聖帝乎天祐助之何其明也」にある。これらの解釈は岩波書も華陽国志もほぼ同じで、「今鹿を攻め天誅を被った。中国に聖帝がおられ、天がお助け下さったのは明らかである。」を意味している。 

「天誅を被った」のは暴風雨にあって、筏舟が転覆し多くの犠牲者が出たことであろう。それでは「天が助けてくれた」のは、何であろうか。「筏舟が転覆し多くの犠牲者が出た」、「六王が殺された」、「虎が六王を喰ったのに驚き逃げた」、これら全てが
哀牢夷のことであれば、哀牢夷の完全な負け戦。天は全く助けてくれていない。しかし、「虎が六王を喰ったのに驚き逃げた」のが鹿夷であれば、哀牢夷の逆転勝利となり、これは中国の聖帝が、天よりお助け下さったと感謝することになる。建武二十三年(47年)、哀牢夷の賢栗王は、鹿夷との戦いに勝利して、怒江以西の地(徳宏タイ族自治州)を支配地にすることが出来たのであろう。だからこそ、賢栗王は建武二十(51年)に、後漢に内属する事を申し出たのである。後漢は不韋(保山市)に永昌郡の郡守を置いている。 

これらから、紀元前にはミャンマー北部・カチン州と接触出来る
徳宏タイ族自治州の地域には、哀牢夷は居住していなかったと考える。少なくとも紀元前には西南シルクロードはなかったことになる。「華陽国志、南中志」には、哀牢国には身毒人(インド人)がいると書いてある。象に乗る哀牢人は、どのようなルートでインドと交易をしていたのであろうか。
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