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24-6.縄文稲作と照葉樹林文化 [24.ジャポニカ、一万年の旅]

佐藤洋一郎氏は縄文稲作が焼畑で行われたと考え、現在でも焼畑でイネを栽培しているラオスの最北部に調査に行き、そこで見聞きした焼畑の様子を書いておられる。焼畑を営む人々は春先になると森の木々を切り倒し下草を刈り、しばらくおいて乾燥させた後に火を放って焼き払い、森を耕地にする。この焼畑も初年次には雑草も生えず、収穫もよかったものが、開いて二年、三年するうちに雑草も生え、収穫量も落ちて来る。そうすると、その土地は放棄されもとの森に戻って行くのだそうだ。 

焼畑での農耕は、水田稲作にくらべ畔や水路のような構造物がなく、農具にいたっても木を切り払う山刀。種播きのために穴をあける先のとがった棒、あとは収穫時の穂摘みぐらいだそうである。もB38ルアンパバーン.jpgちろん縄文時代には山刀はなかったであろうが、木の伐採をする石器を使いこなしていたであろう。縄文稲作の遺構や農具が出土しないのは、焼畑でのイネ栽培のためであると考えておられる。写真B38はラオス北部の古都、ルアンパバーンの街並みとメコン川、佐藤氏が見た焼畑は、ここから150km北にある。
 

縄文稲作が焼畑で栽培された陸稲で、その品種は熱帯ジャポニカのモチ米であると考えておられる。佐藤氏は「稲の日本史」にその理由として、縄文時代にイネが運ばれたとするならば、それは照葉樹林文化の一要素として運ばれてきた可能性が高く、照葉樹林文化はねばねばを好む文化である。熱帯ジャポニカの分布の中心は、インドシナ半島山岳部で、ここに分布する熱帯ジャポニカの圧倒的多数がモチ品種であるとしている。
 
B39托鉢.jpg
写真B39はルアンパバーンで僧侶の托鉢のお供えをする人々。観光客もホテルに頼めばお供え物を用意してくれる。年長の僧侶にはご飯をお供えしていたが、それがモチ米のおこわであったか、残念ながら記憶にない。土地の人々は毎日40~50人の僧侶の托鉢にお供えしている。日本人が忘れ去ったものがここにはあった。
 

佐々木高明氏の「照葉樹林文化の道」(1982年
)では、アジア東部の温帯から亜熱帯に広がっていた常緑のカシ類を主体とした森林、照葉樹林帯には、焼畑で作るモチ種のイネや雑穀、味噌や納豆の醗酵食品、麹を使う酒、茶の飲用、絹、ウルシと漆器、水さらしによるアク抜き等日本と共通した文化要素がある。「わが国の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻みこんでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツを持つことがわかってきた。こうして照葉樹林文化論は、今日ではきわめて有力な日本文化起源論のひとつとみなされるに至ったといえるのである。」としている。 

1977年に「稲の道」を出版された渡辺忠世氏は、稲と稲の文化がインドのアッサムから中国の雲南にかけて生れたと主張された。この「アッサムー雲南起源説」は、中尾佐助氏と佐々木高明氏によって唱えられた照葉樹林文化論と重なって、中国の長江下流域で6~7千年前の稲作の遺跡次々とが発見されるまで、20年間定説の地位を確保し続けて来た。
 

佐藤氏は稲作の起源地は長江下流域であるとして、稲作の「アッサムー雲南起源説」は否定している。しかし、縄文稲作の源流地を、長江下流域であるとは言っておられない。それは長江下流域の稲作が水田稲作であるからだろう。縄文稲作の源流地を「照葉樹林文化」に求めたのであろうか。それとなく匂わせているが特定はされていない。

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