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24-7.「照葉樹林文化の道」はあった [24.ジャポニカ、一万年の旅]

佐々木高明氏の「照葉樹林文化の道」では、アジア東部の温帯から亜熱帯に広がっていた常緑のカシ類を主体とした森林、照葉樹林帯には、焼畑で作るモチ種のイネや雑穀、味噌や納豆の醗酵食品、麹を使う酒、茶の飲用、絹、ウルシと漆器、水さらしによるアク抜き等日本と共通した文化要素がある。「わが国の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻みこんでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツを持つことがわかってきた。こうして照葉樹林文化論は、今日ではきわめて有力な日本文化起源論のひとつとみなされるに至ったといえるのである。」としている。 

中国の長江流域で7000年前の稲作遺跡が多数発見され、稲作の起源地はアッサム・雲南ではなく、長江流域であるというのが定説となった。そうなると、「稲作の起源地はアッサム・雲南」説と車の両輪の如くであった「照葉樹林文化」論は、幻の説ということになってしまうのだろうか。民俗学者の柳田国男氏が、沖縄の文化の中に南方の文化が宿っているのを見つけ、その文化が稲と一緒に日本にやって来たと考えられたように、日本人に深く根付いている照葉樹林文化が、稲作と一緒に日本にやって来たという、照葉樹林文化論は健在であると私は考える。
 
B41 中国稲作遺跡.jpg
4000年前頃、雲南で陸稲の温帯ジャポニカのモチ米が生れ、3500年前頃、温帯ジャポニカのモチ米は、照葉樹林文化と共に長江を下った。このモチ米が通った道こそ、雲南から四川盆地へと象牙と子安貝が運ばれた道である。雲南生まれの温帯ジャポニカのモチ米は、長江下流域では気温が適さず、長江中流から漢水を遡り華中に入り、そして黄河流域に達した。図B41の「中国稲作遺跡」を見ると、三角印の3000~4000年前の遺跡が、雲南地方と長江中流域、そして黄河流域に出現していることが分かる。
 

B69 日本の稲.jpg黄河流域で、陸稲の温帯ジャポニカのモチ米
T(G)qsw5 wx qSH1から、水稲の粘りのある温帯ジャポニカのウルチ米T(G)qsw5 wx qSH1が生れた。そして、この稲が日本に来てコシヒカリに繋がるT(M)qsw5 wx qsh1が生れている。米の粘りを一番左右するのが、Waxy遺伝子のイントロン1の先頭の塩基であり、「G」ならばWxで表わされ「ぱさぱさ」、「T」ならばwxで表わされ「もちもち」である。長江流域で生れた温帯ジャポニカのウルチ米は、 Wx で「ぱさぱさ」しており、黄河流域いで生れた温帯ジャポニカのウルチ米は、wxで「もちもち」している。同じ温帯ジャポニカのウルチ米でも性質が大きく違っている。 

陸稲の温帯ジャポニカのモチ米と、水稲の粘りある温帯ジャポニカのウルチ米が、照葉文化と共に華中・山東半島を経て、3000年前(紀元前1000年)頃の縄文晩期に、我が国にやってきたのである。民俗学者の柳田国男氏が唱えた「海の道」が縄文稲作の道であったように、「照葉樹林文化の道」が弥生稲作の道であったと考える。

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