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22-3.縄文の炭化米と合掌土偶 [22.縄文稲作は存在したか]

青森県八戸市是川にある是川縄文館は、今年7月に開設されたばかりの博物館である。是川縄文館は近くの是川遺跡・風張遺跡から出土した遺物(漆製品・土器・土偶等)が、「縄文の美」として展示されている。これらの遺物を見ると、東北の縄文時代の文化レベルの高さに驚きを禁じ得ない。 
B24 合掌土偶.jpg
この館の「縄文の謎」というコーナーで、風張遺跡の縄文時代後期末とされる住居跡から7粒の炭化米が見つかったことを知った。この縄文の炭化米は、“日本最古の米”として国の重要文化財に指定されている。この炭化米のうち2粒のC14炭素年代が測定され、約2900~2600年前と計測されている。この計測値だと縄文晩期(約3000~2300年前)に当たるが、風張遺跡は縄文晩期~晩期末の遺跡と考えられており、炭化米は縄文後期末とされている。図24は、炭火米と同じ風張遺跡の住居跡より出土した、国宝の合掌土偶である。
 

私の縄文稲作の知識は、北部九州の唐津市の菜畑遺跡・福岡市の板付遺跡を始めとして、四国の愛媛県松山市の大渕遺跡・香川県高松市の坊城遺跡、大阪府茨木市の牟礼遺跡などの、縄文式の突帯文土器を伴う縄文晩期の稲作である。これらの遺跡からは水田跡や石包丁・木製農具などが出土し、どちらかと言えば弥生時代の早期と定義されるべき遺跡である。これらの水田稲作は、国立民俗歴史博物館によれば、北部九州には紀元前10~前9世紀(3000~2800年前)に伝わったとされている。
 

北部九州に水田稲作が伝わった時代に、すでに東北の八戸に“米”が存在していたという事実から、水田稲作に先行する縄文稲作が存在した可能性が考えられはずだが、風張遺跡の炭化米が出土した1992年当時では、まだ縄文稲作について考古学会は懐疑的であった。縄文稲作の存在を証明したのはプラントオパール分析である。

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