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22-2.定説を覆した垂柳遺跡小史 [22.縄文稲作は存在したか]

田舎館村埋蔵文化センターには「垂柳遺跡小史」として、垂柳遺跡が弥生遺跡として認められるまでの経緯が書かれてあった。 

1934年、県道開設工事の際、多量の土器が発見され、山内清男氏は
田舎館出土の土器を「続縄文式土器」と位置づけた。なお、山内清男氏(1902~1970年)は、東京大学名誉教授で層位学を用いて縄文土器の全国的な編年を初めて行い、縄文土器の文様が縄によるものであることを実証した、「縄文の父」と呼ばれる人であった。図B23の左上が、田舎館村埋蔵文化センターに展示されている土器の一つであるが、縄文土器の特徴を持っている。 

1950年、東北大学教授の伊藤信雄氏は田舎館村を訪れ、田舎館出土の土器を「津軽地方の弥生式土器」と位置づけた。しかし、群馬県の「岩宿遺跡」を発掘し、日本に旧石器時代があったことを決定づけた明治大学教授の杉原荘介氏は、弥生式土器の北限を、東北地方中部の岩手県水沢市の常磐広町遺跡として、田舎館出土の土器を弥生時代の土器とは認めなかった。
 

B24垂柳小史.jpg1956年、
田舎館村で耕地整理が実施され、大量の土器が出土する。地元の中学教諭工藤正氏が、土器の中にモミの跡がついたものを発見した。図B23の右上が田舎館のモミ圧痕土器。「日本文化の起源、縄文時代に農耕は発生した」を書かれた慶応大学教授江坂輝弥氏は、 田舎館出土の土器は「弥生式文化の影響を受けているが、稲作が実施されていない」とし、 「弥生式土器」とはせず、「続縄文式土器」と位置づけた。 

1958年、伊東
氏は田舎館垂柳の地を発掘調査し、大量の土器・石器とともに200粒以上の炭化米を発見した。図B23の左下が田舎館の炭化米。しかし、山内氏は 「東北北部は続縄文式が主体で、田舎館村出土の土器は弥生式的な文物を多少取り入れたものである」とし、田舎館村出土の土器を弥生式土器とは認めなかった。杉原氏は田舎館村出土の土器を弥生式土器と認め、弥生時代後期に位置づけた。 

1981年、
青森県教育委員会が国道102号路線内を発掘調査し、東北地方で最初の弥生式水田が発見された。2ヵ年の調査で656枚(面積約8,000m2)の水田跡が発見され、弥生時代中期末に位置づけられた。図B23の右下が発掘された水田跡。水田跡の発掘現場にいた工藤氏が「最後のものがとうとう出ましたよ。」と報告した時、伊東氏は「やっとでましたね。私は初めて垂柳の地形を見たとき、この平野では稲作以外に考えられないと確信していた。」と答えたという。水田の発見の翌年に工藤氏は亡くなり、6年後に伊東氏もこの世を去っている。 

東北地方北部には、水田稲作の弥生時代が存在せず、弥生文化の影響を受けた続縄文時代が存在していたとう定説が、覆るのに25年の歳月を要したというドラマがあった。

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