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22-4.プラントオパールと垂柳遺跡 [22.縄文稲作は存在したか]

プラントオパールはイネ科の植物(イネ・イヌビエ・ススキ・ヨシ等)の葉に含まれるガラス質細胞(機動細胞)で、大きさは約50ミクロン(0.05ミリ)であり、長期間埋もれ、葉が分解し無くなってしまっても、微小化石として土中に残る。このプラントオパーを地層から抽出し、イネ特有のプラントオパールを同定する分析法を確立されたのが、宮崎大学の学長を務められた藤原宏志氏である。藤原宏志氏の著書「稲作の起源を探る」(1998年)には、分析法を確立された経緯が書かれてあり、私には非常に面白く夢中になって読みふけった。 

藤原氏はプラントオパールを形成する色々のイネ科の植物の標本作りから始めている。ガラス質細胞は、その大きさ、断面の形、模様や突起が植物種ごとに違っているそうだ。図B
-25にイネのインディカとジャポニカ、そしてイヌビエのプラントオパール(P・O)を示す。 

B25-1.jpgB25-2ジャポニカ.jpgB25-3 イヌビエ.jpg

約50ミクロンのプラントオパールを土中から抽出する方法は、資料の乾燥土に水に加え撹拌し、その沈降速度に合わせて上澄み液を回収分離する。私は仕事で粉末を扱い、沈底法の経験があったので、この方法は簡単で精度のある方法であると理解出来た。
 

プラントオパールの回収率やその量を知る為に、40ミクロンのガラスビーズを一定量入れるという。プラントオパールもガラスビーズも大きさと比重が同じなので、沈降速度は同じ。回収した沈殿物の一部のプラントオパールとガラスビーズの数を調べれば、全体のプラントオパールの量が推定出来る。その他数々の精度を上げる為の工夫がされてあり、この分析が精緻に行われており、信頼出来るものであると感じた。
 

垂柳遺跡の弥生水田跡の発掘には、このプラントオパール分析が活躍したそうだ。ポラントオパール分析を開発した藤原氏は、垂柳の弥生稲作の存在を信じておられた東北大学の伊東氏の強い要望を受け、半信半疑で宮崎から青森の現地に顕微鏡を持ち込んだそうだ。試掘現場から土壌資料を採取し、資料をプラントオパール分析の簡便法で調整して、顕微鏡でのぞいて見ると、イネのプラントオパールが大量にあらわれていた。この時の衝撃は、あとにもさきにも経験のないものであったと書かれている。
 

その後、プラントオパールが大量に検出された土層を試掘すると水田址が出て来たという。翌年の1985年から2ヶ年に渡る発掘調査でも、プラントオパール分析による探査法が全面的に採用され、656枚の水田址が発見されたそうだ。“ここ掘れワンワン”とプラントオパール分析が活躍したのであろう。
 

藤原氏は、1974年には、熊本県上ノ原遺跡の縄文晩期初頭の土壌から多量のイネのプラントオパールを見つけ、1981年には、熊本県上南部遺跡の約2800年前といわれる縄文晩期初頭の土器片から、イネのプラントオパールを見つけている。これにより、少なくとも縄文晩期初頭には、イネが栽培されていたことを証明している。私の推察だが、当時このことは考古学会では信用されず、縄文晩期初頭の稲作は、受け入れられなかったのではなかろうか。
 

垂柳遺跡の水田址発見に、イネのプラントオパール分析が活躍したことにより、考古学会で認知されたような気がする。水谷拓実氏が年輪年代法を開発した時も、それを考古学会が信用するようになったのは、奈良時代に紫香楽宮のあった場所を年輪年代法で特定してからであった。藤原氏も水谷氏も農学部出身者、考古学は文学部出身者が多く、他の分野の学問はなかなか受け入れ難かったのであろう。今では学際的研究が、歴史の真実をあぶり出すために活躍している。

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