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20-9.日本で出土する呉の鏡 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

呉の紀年銘鏡が2面日本で出土している。山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡である。日本で出土したものではないが、呉の紀年鏡が日本で保有されている。黄武元年銘神獣鏡(五島美術館蔵)と黄武二年銘の神獣鏡(個人蔵)である。 

中国社会科学院考古研究所の前所長の王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなくて、当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」と講演し、日本の考古学会に大きな衝撃を与えた。この王仲殊氏は「三角縁神獣鏡」という本を出版されている。この本に「日本出土の呉鏡」という論文がある。
 その中で、「日本で出土する大量の中国の銅鏡の中で、確かに呉鏡であると認められるものは、神獣鏡、画像鏡、仏像夔鳳鏡の三類に大別できる。」として、具体的な鏡について言及している。その中に大阪府和泉市黄金塚古墳東槨より出土の画文帯環状乳神獣鏡がある。 
B19呉鏡鉛.jpg
三角縁神獣鏡の鉛同位体比の208Pb/206Pb の値は、その全てが2.11以上であるが、2.11以下の画文帯環状乳神獣鏡は、呉の紀年銘鏡の鉛同位体比が示す直線に載っている。これらを図B19にプロットした。もちろん黄金塚古墳の画文帯環状乳神獣鏡の2面も入っている。これら呉の鏡の鉛同位体の産地鉱山は、中国湖南省桂陽県の宝山鉱山が最適であった。桂陽は唐・宋代には鉱山管理の桂陽監が設置され、古代から鉱山の開けた場所である。
 

呉の紀年銘鏡の赤烏元年は238年で、魏の年号では景初2年に当たる。赤烏七年は244年で、魏の年号では正始5年に当たる。卑弥呼が魏に使いを遣わしている前後の、呉の紀年銘鏡が日本から出土しているのである。呉の孫権は遼東の公孫氏に使いを再三遣わし、魏を牽制している。倭国対しても、呉は使いを遣わして来たのであろうか。黄金塚古墳の中央槨から景初三年銘の魏の画文帯神獣鏡が出土し、東槨より呉の画文帯環状乳神獣鏡2面が出土している。中国の書物に書かれていない歴史があるのかも知れない。

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コメント 3

石山

赤烏銅鏡が発見された古墳は、弥生時代後期の墳丘ではないのでしょうか。兵庫でも(赤)烏銅鏡が出ていますが、これも弥生時代後期の墳丘でしょうか。吉備国の三輪山の墳丘墓や楯築墳丘墓と比較して時代はわからないでしょうか。呉の影響が考えうる範囲は邪馬台国と対立していた、狗奴国とはならないでしょうか。赤壁の戦いの後の孫権 呉国の魏包囲戦略はどう考えられるものでしょうか。
by 石山 (2013-01-27 05:42) 

t-tomu

古墳時代の始まりは何時であるかについては、学者の間でも意見の分かれるところですが、私は大型前方後円墳の箸墓古墳が築造された以降と考えます。その箸墓古墳の築造年代は、国立歴史民俗博物館が弥生・庄内式・布留式土器に付着していた炭化物の、C14年代測定により導いた240~260年代と思っています。
日本出土の呉の紀年鏡、赤烏元年(238年)・赤烏七年(244年)の製作年は、弥生時代と古墳時代の境でありますが、それらが日本に伝わり埋葬されたのは古墳時代と考えます。日本出土の魏紀年鏡、青龍三年(235年)・景初三年(239年)・景初四年(240年)・正始元年(240年)も同様のことが言えると思います。
呉の孫権は魏の包囲戦略として公孫氏と接触を行ったが、公孫氏は238年に魏に滅ぼされています。日本出土の呉の紀年鏡から、呉国が倭国と接触したとすれば公孫氏滅亡後のこととになります。呉の魏包囲戦略としては公孫氏がなければ、倭国と結びついても意味はないと考えます。呉の紀年鏡の謎は解けないのです。
ベトナムにあった扶南国が赤烏7年に呉に朝貢しています。朝貢と言ってもそれは貿易です。その交易船が日本に来た、そのとき呉の鏡も積んでいた。倭国に東南アジアのガラスビーズが多く来ていることから、そんな妄想を抱いています。
by t-tomu (2013-01-30 11:20) 

石山

古墳の年代ですが、呉の鏡が出土した古墳は、その時代決定の根拠とできるでしょう。それを前提にしますと、播磨と山梨で、呉の紀年銅鏡が出たことは、邪馬台国に対抗する狗奴国の範囲は、播磨・吉備国(古墳につながる埴輪などの発生から)から東方と判断します。これ以外にも、この範囲からは盤龍鏡など、江南式の鏡が出ている古墳があります。九州の弥生古墳は地下式墓のようですから、曹操などの墓と同じ北朝のながれにあると考えます。狗奴国では、前方後円墳など地上より高い位置に埋葬するので、江南の南朝・呉の文化の下にあると考えます。それから古墳時代の始まりは、呉国が滅びた後始まったものではないでしょうか。三角縁鏡もそれから理解できるようになる。という考え方なのですが。
by 石山 (2013-03-21 10:11) 

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