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18-5.上表文と書紀の記載は合致 [18.倭の五王を解く]

私の元年表によると、書紀は469年(雄略6年)「呉国が使いを遣わして貢物を奉った」とあり、呉国が朝貢の要請をして来ている。そして、471年(雄略8年)に「身狭村主青らを呉国に遣わされた」とあり、その要請に答えている。しかし、473年に身狭村主青が呉国から賜った鵞鳥を持って筑紫に行っていることから、身狭村主青は呉には行けなかったことが推察出来る。そして、475年4月(雄略12年)に身狭村主青らを再度呉に派遣し、477年身狭村主青らが呉の使いと共に帰国している。 

三国史記の高句麗・百済本紀には、475年9月に高句麗が百済を攻め、百済の王都が陥落し、百済王も殺害され、都を熊津に移したとある。これは上表文の「道を百済にとって朝献すべく船をととのえました。ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのため朝貢はとどこおって良風に船を進めることも出来ず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。」と一致する。しかし、書紀の475年4月に派遣された身狭村主青が、上表文を持って呉に行ったとすると、上表文に百済の壊滅を書けるはずがない。
 

宋書には477年「
倭国使いを遣わして方物を献ず(宋書帝紀)」とあり、478年には「倭国王興死し、弟武立つ、武遣し上表す(宋書倭国伝)」とある。書紀の身狭村主青の呉への派遣と帰国の時期と比較すると2年程ズレている。 

私の作成した元年表は、一定のルールの基に作成し、個別の天皇について、年表を調整したことはない。ただ、天皇が崩御し、次の天皇が即位する間に、天皇不在の空白の期間があるかどうかは、書紀の文章から推量して決めている。雄略紀では空白の期間がないように書紀は表現しているが、実際は存在したのかも知れない。
 

日本書紀によると、允恭天皇は第一子の木梨軽皇子を皇太子にされていたが、允恭天皇が崩御されてから政変があり、木梨軽皇子は自殺されることになる。そして第二子の安康天皇が即位される。しかし、安康天皇も即位3年で、皇后の連れ子の眉輪王に殺されてしまう。このような変事の後、允恭天皇の第五子の雄略天皇が、即位を得る可能性のあった市辺押磐皇子を謀殺し、その後即位されている。上表文にある「にわかに父兄を失い」は、これらの事情を述べたものであり、書紀が史実を書いた書であることを示している。ただ、安康天皇崩御から雄略天皇即位の間に、2年間の空位があったとしてもおかしくない。463年の安康天皇崩御はそのままで、雄略天皇即位を466年とし、在位を21年間とすれば、他の天皇の年表に影響与えることなく、年表を作成することが出来る。表15に示す。

この年表によれば、倭王武の上表文と書紀の呉国への朝貢とは全く一致する。ただ、宋書には呉国(宋)が倭国に朝貢の要請の使いを遣わしたことは書いていない。三国史記には、430年に宋が百済に朝貢要請の使者を送っており、倭国に対して朝貢要請の使者を派遣してくることは十分可能性がある。書紀に呉国の使いが来たとあるのは、史実であると考えられる。

表15雄略紀.jpg


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