18-6.書紀に書かれた雄略天皇の朝貢 [18.倭の五王を解く]
書紀によると、471年(雄略6年)呉国が使いを遣わしてきて貢物を奉っている。473年(雄略8年)に身狭村主青らを呉国に遣わされたが、474年に高句麗が百済に攻込み、呉に行くことが出来なかった。新羅本紀には、474年に高句麗が百済を攻め、救援を求めてきたとある。475年9月に百済の王都が陥落している。
477年4月(雄略12年)に身狭村主青らを再度呉に派遣した。この派遣に際しては、上表文を携えて行った。武王の上表書は、文脈も非常にしっかりしたものである。471年に呉国から来て帰国出来ないでいた使いが、上表文を書いたと思われる。479(雄略14年)身狭村主等が呉の使いと共に帰国している。宋書の477年「倭国使いを遣わして方物を献ず(宋書帝紀)」とあり、478年には「倭国王興死し、弟武立つ、武遣し上表す(宋書倭国伝)」とピッタリあってくる。
書紀の雄略14年に「春1月13日、身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才技、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。この月に呉の来訪者のため道を作って、磯果の道に通じさせた。これを呉坂と名づけた。3月、臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を、大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の先祖である。」と記載している。
平成13年、高取町清水谷で、床にオンドルを設けた5世紀後半の建物跡が見つかった。何本もの柱を壁土で塗り込めた「大壁」と呼ばれる構造で、朝鮮半島とそっくりである。伽耶諸国の土器も見つかり、町教育委員会は「東漢氏の拠点地域の一つ」と発表した。「その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。」とある雄略14年は、年表では479年であり、5世紀後半とピッタリ一致する。呉原は現在の明日香村栗原と考えられており、明日香村大字檜前のすぐ東側。建物跡が見つかった高取町清水谷とはかなり離れた位置にあるが、その付近まで桧隈だったと考える必要が出てきたのではないかという意見もある。書紀の記述を裏付ける発見と考えられている。
倭の五王の研究者は、宋書に見られる記事から、倭国が中国の冊封体制に組み込まれ、時に応じて朝献を繰り返して来たと考えているが、倭国が行った「朝貢の歳をあやまらぬ」とは、呉国の皇帝の就任に対し祝賀の朝献をすることと、天皇の即位に対して就任の挨拶としての朝献を行ったものであると考えられる。ただ、就任の挨拶は皇帝から王位を授かるという形で行われた。これらの外交以外に、弔問外交というものもある。私の年表では460年春1月、允恭天皇が亡くなられた。新羅の王は天皇が亡くなられた事を聞き、多数の楽人と沢山の調をよこし、殯宮に参列した。冬11月に新羅の弔使らは、喪礼を終え帰っている。宋書孝武帝紀によると、460年12月「倭国使いを遣わして方物を献ず」とある。この記述は、宋から允恭天皇の崩御に対して、喪礼の弔使を派遣したことを示していると思われる。
宋書には、宋から倭国に使いを出したことも、倭国の朝献した使者が帰国する際に土産を賜ったことも、宋の使いが倭国から貢物を持ち帰った時も、すべて倭国が朝献したかの如く記載しているように思える。これは中華思想の表れであろう。一方倭国は倭の五王の時代、表面上は册封体制に入ったかの如く振舞いながら、南北朝の対立の弱みに付け込んで、したたかな外交を行っていたに違いない。
日本書紀は、宋書倭国伝に書かれた倭の五王の記事の一部を正確に記録している。ただ、その記録は900年歴史を延長するという作業の中で、また、それに伴う百済の歴史の一部を干支二廻り繰り上げる作業の中で、バラバラにされ組み込まれてしまった。それら絡み合った書紀の編年を、一つ一つ紐解いていくと、書紀原典に記録された、倭の五王の姿が見えてくる。それは、宋書という中国側から見た册封体制に組み込まれた倭国ではなく、高度な技術や品物を取り入れようとしている倭国の姿である。推古天皇より以前の日本書紀は、創作されたものであるとしてしまうと、そこからは何の史実も見えてこない。日本書紀には史実が隠されている。その史実を見つけ出す作業に、私の元年表が役立てば幸いである。
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
②貴重な金石文を正確に読みましょう。
③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
(過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
(すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ) ⇒誉田(ほむた)
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
で、アメノタリシホコは
蘇我馬子であり
用明天皇でもあり
聖徳太子でもあります。
この4名は 実は たった一人の実在人物です。
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
とおりすがりのむらかみです
是非感想聞かせてください
by むらかみからむ (2012-07-06 23:19)
古代史(縄文・弥生・古墳)の編年を解明するためには、文献史学と考古学のマッチングが必要であると考えます。文献史学では絶対年代の物差しとしては、中国の歴史書が使われています。考古学では従来土器型式編年を絶対年代の物差しとしてきましたが、その編年は年輪年代法により、大きく修正される事態が生じております。土器型式編年はあくまでも相対年代の編年であって、絶対年代の編年にはなりえないと思います。
私は絶対年代の物差しとして、年輪年代法とC14炭素測定法を信じています。ただし、これら両者にはそれぞれ問題点があり、単発的に測定された値を信じるわけにはいかないと思っています。その意味においては、国立民俗歴史博物館(歴博)が行っている、年輪年代法と炭素14測定法、炭素14測定法と土器型式編年とのウイグルマッチ法(凹凸データの統計処理)が実年代を解明する手法と考えます。
これらについて、私は「古代史散策」で次のように述べています。「考古学者の中には、歴博の年代観について、異論を挟む人も多いようだが、私は事実に近いのではないかと思っている。それは歴博が科学的手法で測定しているからだけではない。炭素14の測定という科学的手法と、考古学者が長年行って来た土器の編年とをマッチングさせているからだ。また、年輪年代法とマッチングした較正年代を使い、5千点という膨大な資料を取っていることから、統計的に誤差・異常値・バラツキも排除出来ていると考える。これらの年代観に基づいて、日本の歴史が明らかになって行くことを期待したい。」
さて、本コメントで示された石渡氏の編年は、古墳時代の始まりを350年とされており、私の年代観とは100年も違っております。 だから、石渡氏の編年と私の編年とは相いれないものと思っております。どちらが真実に近いかは、これからの考古学が証明してくれるものと考えています。
by t-tomu (2012-07-17 12:05)