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18-4.倭王武の上表文 [18.倭の五王を解く]

宋書倭国伝のなかで、最も注目に値する記載内容は、478年倭王武が宋の孝武帝に奉じた上表文であろう。この現代訳を、中央公論出版・井上光貞著「日本の歴史・神話から歴史へ」から引用する。 

「皇帝の册封を受けたわが国は、中国から遠く偏って、外臣としてその藩屛となっている国であります。昔からわが先祖は、みずから甲胄をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく、東は毛人を征すること五五国、西は衆夷を服すること六六国、北のかた海を渡って平らげること九五国に及び、強大な一国家をつくり上げました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広く広がり、中国の威ははるか遠くに及ぶようになりました。
 

わが国は代々中国に仕えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かなものではありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を(か)りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝献すべく船をととのえました。ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのため朝貢はとどこおって良風に船を進めることも出来ず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
 

わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渉ろうとしたのであります。しかるに丁度その時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機を無駄にしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ、父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむとこではありません。もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官を名のり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠節をはげみたいとおもいます。」
 

この上表文を書かせた武王が雄略天皇で、文章に出てくる「わが亡父の済王」が允恭天皇であることは、諸学説の一致する所であり、私の新年表もその通りになっている。
 
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