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13-6.纒向遺跡の桃と大田田根子 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

大型土坑の年代が布留0式であると、箸墓古墳が作られた年代で、私の年表では崇神天皇の時代に当たる。日本書紀の崇神天皇5年(254年)に「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどである」とある。百姓の流離するもの、反逆するものがあったので、天照大神と倭大国魂の神を祀ったが効果がなかった。崇神7年、天皇の夢に大物主神が現れ、「もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたらたちどころに平らぐだろう。」とお告げがあった。3人の家臣も同じ夢を見たので、大田田根子を探させ茅渟県の陶邑で見つけた。天皇は浅茅原にお出ましになり、大田田根子にその出自を聞かれた。「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます、陶津耳の女です(陶津耳の女でないことは次章で述べる)」と答えた。そこで、大田田根子を祭主として大物主大神を祀ると、疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。 

古代遺跡として超有名になった「纒向遺跡」は、庄内式期の遺跡を取り囲むように、布留式期の遺跡がある。卑弥呼の宮殿ではないかと騒がれた大型建物跡が出土した遺跡は庄内式期の遺跡範囲の内にある。この庄内式期の遺跡は当初「太田遺跡」と呼ばれていた。それは遺跡のある地名が太田であるところから来ている。「太田」が、崇神天皇に出て来る大田田根子に関係するのではないかと、森浩一氏など言っておられたが、発掘された大型建物跡が卑弥呼の宮殿ではないかと騒がれ、大田田根子の話などは何処かに飛んで行ってしまった。
 

NHKスペシャルでは、桃は中国の道教から来ているとしている。しかし、書紀の神代には、伊奘諾尊が伊奘冉尊の殯斂
(もがり)で死体を見ると、八種類の鬼がたかっていたので、驚いて逃げかえった。鬼が追いかけて来たので、桃の木の下に隠れ、その実を鬼に投げつけると、鬼は逃げ去った。これが桃でもって鬼を防ぐ始まりであると書いている。我が国では神代の時代(弥生時代)から祭祀には桃が用いられていたと思われる。桃の種約3千個が出土した大型土坑は、大田田根子が大物主神を祀り、疫病が収まり国内が鎮まるよう、祈祷した祭祀の跡と私は考える。「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどである」を考えると、桃3千個も集めなければならなかった意味が分かって来る。 

大田田根子が祀りをした場所は、三輪山の裾野にある三輪神社の辺りではなかったと考える。疫病が収まった翌年、神の宮で宴が行われている。大物主神に奉る酒を司る活目は「この神酒は私の造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です。幾世まででも久しく栄えよ。栄えよ」と詠った。天皇も「一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝の戸をおし開こう。三輪の戸を」と詠っている。この宴は、大田田根子の功績に報い、三輪神社を建てた祝宴と考える。だから、歌の終わりには、大田田根子は今の三輪君らの先祖であると書いている。
 

大田田根子が祀りをした場所は、崇神天皇がお出ましになった
浅茅原であつたと考える。天皇と同じ神託の夢を見た一人に、倭迹速神浅茅原目妙姫がいる。浅茅とは茅萱(ちがや)のことで、イネ科の多年草で茎の先に花穂をつける。河原、田畑、土手など日当たりの良い所に群生する。万葉集には浅茅とか浅茅原と詠われている。太田地区が浅茅原だったと想像する。盾持埴輪が出土して有名になった茅原大墓は、桜井市茅原にある。太田地区とは直線距離で1キロメーターか離れていない。茅原と浅茅原は関係あるのかも知れない。 

平成23年4月、桜井市教育員会は図38の遺構配置図の東側(右側)で、JRの線路との間を発掘したところ、大型建物とほぼ同じ規模の柱穴を5ヶ所見つけたと発表した。建物の向きは建物Dとは違っている。ひょっとしたら三輪山を向いたたてものかも知れないし、
大田田根子が桃を祀り、祭祀をした建物かも知れない。建物が大型土坑と同じ布留0式の時代であれば面白い。 
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はじめまして!
当方は中国史記、古事記、日本書紀、その他(甲骨文字・木簡・鉄剣銘文)等の解読をしています。
先人の解釈法とは異なり、中国史記は借字漢音を右文説+華字(解字、字根)を五経易に基づいて記述されているので、それに従って解読しています。
日本の古事記、日本書紀は同様ですが応用文法になっています、訓読の解読は文法を無視しているため解読できません、訓読することは自由ですが孔子、墨子等の論語も訓読されています。
古事記、日本書紀は漢表音(呉音=百済音)+右文説+華甲字(解字、字根)+国字。
当方がなぜ訓読みを採用しないのかというと、漢字一字一句に仮借表音が割り当てされており、五経易の【数】を背負っています、これが【公比】です。
この公比を積算して一定の正しい積算数と一致すると漢字表音は正解となります。仮借漢字表音を手がかりにネット現代辞書で【ひらがな】検索をします。
この段階では文節の文脈は把握できません、漢字のすべてが仮借で記述されているわけではありません。文脈で重要な漢字は原文に従います。
句点、返り点は存在しません。熟語(駢字、故事成語)を構成できなくなります、又、漢字の増減はありません。

中国漢文史記は仮借で記述されています、重要な漢字はそのまま使用されています、古事記、日本書紀も同様です、日本の場合は呉音(百済音)も使われ記述されているので難解です。
【日本書紀に記載された記事を1年も損なう事なく、書紀の原典となる年表を、241年辛酉の年を起点に作成することが出来た。驚くことに、神武建国は邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王の金印や、鏡百枚を授かった正始元年(240年)の翌年の事であった。】

当方の解読では正始元年(240年)が起点となります。
卑弥呼(魏=公孫=バイリンガル)⇒西暦239年崩御。属國の親中派。
【難升米等】⇒南春米⇒献上米。
舂米とは - コトバンク (kotobank.jp)
独立派。⇒イザナギ、イザナミ(スサノオ戦死)⇒西暦(240年)
イザナミ元号⇒朱鳥元年⇒三角縁同向式神獣鏡 「□始元年」(正始元年)
先(晋)の強大が軍事力に阻まれます、ニニギ(瓊瓊杵尊)天皇位(不認可)⇒彦火火出見尊
西晋(海神族)神阿多都比売⇒【比売⇒血族の妾腹】⇒西晋の血族を娶ることで許可。
三種の神器を渡されます。
日本では
初代 ニニギ(瓊瓊杵尊)
二代 彦火火出見尊
三代 彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊
四代 神武天皇⇒西暦257年 生誕。
※ 三十九歳⇒神武東征。⇒西暦294年⇒九州筑紫。
※ 一百七十九萬二千四百七十餘歲⇒五経『九章算術』
※ 1+(百=2)+7+(十=1)+9+(萬=4)+2+(千=3)+4+(百=2)+7+(十=1)=43歳ですが、【餘⇒華甲⇒
by SPOT (2021-03-21 21:05) 

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