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14-1.崇神天皇と大田田根子 [14.大田田根子の謎を解く]

崇神紀には、大和王権が天神地祇として天照大神を祀らず、三輪山の大物主神を祀るようになった経緯が記載されている。崇神5・6年は国内に疫病が流行し、死亡するものが多く、百姓は流離・反逆し、世情が不安定であった。天皇は御殿に祀っていた天照大神と倭大国魂の二神を、豊鍬入姫命と渟名城入姫と別々に祀ったがうまくいかなかった。

神浅茅原で倭迹迹日百襲姫命が神懸かり、大物主神を祀るようにとのお告げを得た。そして、天皇と三人の臣下が「大田田根子命を、大物主神を祀る祭主とすれば、必ず天下は平らぐだろう」という同じ夢を見た。天皇は広く天下に告げて探させると、茅渟県の陶邑に大田田根子を見つける事が出来た。天皇がその素生を聞かれると、大田田根子は「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です。」と答えている。また別に
「奇日方天日方武茅渟祗の女」とも言われているとある。大田田根子を祭主として大物主神を祀り、長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ることで、疫病ははじめて収まり、国内は鎮まった。そして、大田田根子は三輪君らの先祖であるとしている。 

大田田根子が見つかった茅渟県の陶邑は、堺市・和泉市にある泉北丘陵、須恵器の生産地にある。堺市中区上之にある陶荒田神社の由緒書きには、「当社は延喜式(905年制定)にも載っている古社で、大田々禰古命が勅命を奉じて大和国大三輪大神を祀る神主となられた時、先祖の神霊を祀るために、この陶村すなわち茅渟県陶器郡の大田森に社を建立されたのが起源である」とある。
 

「茅渟県の陶邑」「陶津耳」は須恵器に関係している。書紀には崇神天皇の御陵は山辺道上陵と記載され、纒向にある行燈山古墳に比定されている。この比定が正しいかどうかは別として、崇神天皇の御陵は少なくとも山辺道沿いにある前期の大型前方後円墳、箸墓古墳・渋谷向山古墳・行燈山古墳・西殿塚古墳の何れかであろうことは間違いない。これら前期前方後円墳は3世紀半ばから4世紀半ばに造られたと考えられている。一方、須恵器の生産が始まったのは4世紀末であり、これら古墳に須恵器が埋葬された痕跡はない。これらを考えると、崇神天皇の時代に活躍した大田田根子の母の活玉依姫が、陶邑の陶津耳の女であることが怪しくなってくる。大田田根子の出自を別説にある
「奇日方天日方武茅渟祀の女」から探ってみる。
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