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13-5.纒向遺跡の宮殿跡を考える [13.邪馬台国畿内説を斬る]

図38巻向遺跡.jpg                                (図をクリックすると大きくなります)

図38は纒向遺跡の遺構配置図は、平成22年9月の第168次調査の現地説明会で使用されたものに加筆したものである。この遺構を古い順(桜井教育委員会の比定)に並べると、①建物D面(ピンク)、②大型土坑、溝SM-1001、溝SD-1009(ブルー)、③面SD-1011(イエロー)、④溝SX-1001(グレイ)である。この中で時代が一番比定され易いのは、土器などの出土遺物の多い大型土坑と溝(ブルー)である。大型土坑は庄内3式期、溝は庄内3式期~布留0式期となっている。大型土坑は湧水があったとされており、最初から溝と繋がっていたと思われる。古い土器と新しい土器が混在するときは、その遺構の年代は新しいもので決めるという、考古学の原則からすると、大型土坑と溝の年代は布留0式期となる。
 



図39切り合い.jpg大型建物Dの廃絶は庄内3式期かそれ以前とされているのは、大型建物廃絶後に溝が掘られたと見ているからだ。赤①と赤②が溝によって削られた柱穴だ。詳細な写真で見ると赤①は柱穴のほんの一部が溝に掛かっているだけで、柱穴の一部を削って溝を掘ったのか、溝を埋めて柱穴を掘ったのか、切り合いは明確でないと見えた。また、図39の赤②は溝が完全には発掘されておらず、溝が先か後かは写真からは分からない。切り合いを精緻に判定したかどうか疑問を感じた。
 

図40 SD-1011面.jpg
庄内3式期以前とする建物Dの面(ピンク)と、布留1式期とされるSD-1011の面(イエロー)は、両方とも削平されている。図40の写真では、両者がほぼ同じ高さであることが分かる。掘り下げた地層から見ても、SD-1011面(イエロー)の方が、
どちらかと言えば建物D面(ピンク)より低く見える。
 


図41同じ面?.jpg図38遺構配置図で見ると、布留2~3式期に作られた溝SX1001(グレイ)は、平成21年に発掘された建物D(ピンク)と平成22年に発掘されたSD-1011面(イエロー)の両方の面を削った水路のように見える。図41の写真は、布留2~3式期に作られた溝SX1001を基準に、建物Dの面とSD-1011の面を見たものだ。溝SX1001面からの立ち上がりは、写真の倍率の違いを考慮しても、両方とも同じように見える。建物の面とSD-1011の面は同じ時代のものでないかと疑問を持った。
 


私は土器の編年は、国立民族博物館が行った、土器型式を用いたC14炭素年代測定(ウイグルマッチング)の結果に準じている。それを見ると、庄内3式は200~240年、布留0式は240~260年、布留1式は260~330年になっている。桜井教育委員会の見解より、30年程古くなっている。大型建物は溝が掘られる前に建てられたのであれば、庄内3式の時代(200~240年)で、卑弥呼の活躍した時代と重なるが、12章5節(12-5)で述べたように、私は饒速日命の子孫の宮殿と考える。もし、大型建物は溝が埋められて建てられたのであれば、布留1式の時代で垂仁天皇の纒向の珠城宮(276年)となるであろう。
 

NHKスペシャルで、卑弥呼が宮殿Dで祭祀をする時に桃が供えてあり、その桃の種が型土坑から出土したものであるかの印象を与える映像があった。桜井市教育委員会は、溝は建物Dの廃絶後に掘られたとしており、建物Dと溝・大型土坑とは同時に存在しないので、宮殿Dで祭祀に使った桃を、大型土坑に破棄することは出来ない。NHKの勇み足ではないだろうか。

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