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7-2.磐余彦尊、河内上陸 [7.神武東征は史実だった]

昭和15年、皇紀2600年記念事業の一環として、政府は学者等の諮問機関で、神武天皇の足跡伝承地の大規模な調査を行い、日本書紀に書かれた地名の所在を明らかにして、神武天皇聖蹟として公表した。その比定地を以後太文字で示す。 

234年(甲寅)10月5日、磐余彦尊は諸皇子・舟軍を率いて東征に出発。速吸之門豊予海峡)で椎根津彦を水先案内人とした。椎根津彦は東征後の論功行賞で倭国造に任じられており、倭直の先祖である。平安時代初期に編纂された新撰姓氏録の大和国神別には、大和宿祢の先祖として記載されている。 筑紫の国の宇佐で、宇佐国造の先祖の宇佐津彦・宇佐津姫のもてなしを受ける。宇佐は大分県の宇佐神宮のある宇佐市である。宇佐津姫をお供の天種子命に娶あわした。天種子命は天児屋命の孫であり、中臣氏の先祖である。宇佐津彦は岡の水門に立ち寄る事を勧めた。 

図16岡水門.jpg11月9日、磐余彦尊は筑紫の国の岡水門に着いた。岡水門は遠賀川の河口にある。瀬戸内海を東に向かって東征する際に、難所の関門海峡を通り、わざわざ岡水門に立ち寄っているのは、饒速日命に従って既に大和に行っている物部一族から、大和の情報を集めるためであった。 新撰姓氏録の中に、未定雑姓の分類で「神饒速日命、天降りましし時の従者」として3氏族がある。二田物部、嶋渡物部、坂戸物部である。図16に二田物部があり、嶋渡物部は嶋戸物部であり、物部の出身地が遠賀川周辺であることが分かる。図16は、「大いなる邪馬台国」、鳥越憲三郎、講談社を参照した。

12月27日、安芸の国に着いて埃宮広島県安芸郡府中町)に入っている。235年(乙卯)3月6日に吉備国に移られ、高島宮という仮宮を造った。高島宮岡山市の児島半島北部(旧・甲浦村)とされている。高島宮では3年間滞在し、船舶を調え、兵器や食糧を蓄え、天下を平定しようと準備した。
                                 図17弥生・古墳時代の大阪.jpg
 238年(戊午)2月11日、磐余彦は船団を組んで東に進んだ。船団が難波崎大阪市)に着こうとするとき潮の流れが速く、浪速国と名付けた。流れを遡って3月10日に河内国の草香村東大阪市日下町)の白肩津に着いた。草香では磐余彦尊は戦いをしていない。生駒山西麓の河内(東大阪市・八尾市)は庄内式土器の中心地で、物部氏の本拠地でもある。磐余彦尊が岡水門に立ち寄った成果であった。書紀は古代の地形を正確に把握し書いている。


図17はURBAN KUBOTA No16-23 森浩一を参照加筆。 
                     (図をクリックすると大きくなります)


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コメント 2

ヴァイオラ

埃宮の所在地が、広島市府中町になっていますが、府中町は安芸郡です。あそこだけ広島市と合併していません。
by ヴァイオラ (2013-05-28 00:31) 

t-tomu

ご指摘ありがとうございました。府中町のプライドを感じました。
by t-tomu (2013-06-03 09:04) 

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