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7-1.神武東征は歴史から消されている [7.神武東征は史実だった]

戦後の歴史学は、古事記・日本書紀は、天皇による日本支配の正当性を説明するために書かれたものだとして、記紀に書かれた推古朝より以前の事柄は、創られたものであり、歴史学の対象ではないとしていた。埼玉県行田市の稲荷山古墳、また熊本県菊水町の江田船山古墳から出土した鉄剣の金石文に「獲加多支鹵(ワタカキロ)大王」の文字があり、その大王が21代の雄略天皇(大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ)天皇)であると比定され、記紀は史実を書いていると信頼性も高まった。しかし、初代の神武天皇が日向から大和に東征した事を、史実であると考える歴史・考古学者は皆無である。図15JFA.jpg 

日本サッカー協会は「ゴールに導く神の使い」として、三本脚の八咫烏をシンボルマークとして採用している。その採用の経緯は、日本に初めて近代サッカーを紹介し「日本サッカーの生みの親」とされている、中村覚之助氏の功績を顕彰するために、出身地の那智勝浦町にある熊野三山の神鳥「八咫烏」をシンボルマークとして採用したという。

八咫烏は神武天皇が東征したとき、熊野から吉野まで先導した烏である。書紀は八咫烏を鳥であるかの表現を取っている一方、東征が成功し橿原宮で即位した後の論功行賞で、八咫烏にも賞を与え、その子孫が葛野主殿県主と記載している。
宇陀市榛原区にある八咫烏神社は、続日本紀に文武天皇の慶雲二年(705年)に創建されたとある。古事記の撰上が712年、古事記撰上より7年前には、八咫烏の存在と功績が知られており、神武東征は天皇による日本支配の正当性を説明するために創られた作り話ではなく、古来からの伝承であることが分る。 

書紀に記載された通りに編年すると、神武天皇(磐余彦尊)が橿原宮で建国したのは、紀元前660年の辛酉の年となる。私は書紀が丁度900年延長されていた事を見つけた。日本書紀の編年を900年短縮すると、神武天皇が建国したのは、241年(辛酉)となり、邪馬台国の時代に東征が行われた事になる。 神武天皇の建国が241年であることを起点として、神武東征の年代を算出すると、日向より東征に出発したのは234年になる。魏志倭人伝によれば、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に、魏の皇帝に朝献したいと使いを遣わしたのが、景初3年(239年)である。その5年前に磐余彦尊が東征に出発していた。 


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