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7-3.磐余彦尊の足跡、熊野へ迂回 [7.神武東征は史実だった]

4月9日に軍は兵を整え、歩いて竜田に向かった。その道は狭くけわしく、人が並んで行くことが出来なかったので引き返し、東の方の生駒山を越えて中洲国に入ろうとした。そのとき長髄彦がこれを聞いて、全軍を率いて挑み、孔舎衛坂(旧・中河内郡孔舎衛村)で戦いとなった。 

兄の五瀬命が流れ矢に当たり負傷し、磐余彦尊は進軍出来なかった。そこで「日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは、天道に逆らっている。背中に太陽を背負い、日神の威光をかりて、敵におそいかかるのが良い。」と言われて、草香の津に引き返えした。そこで盾をたててときの声をあげたので、その津を盾津(旧・中河内郡盾津町)と呼んだ。 

長髄彦との戦いに敗れた磐余彦尊は、傷ついた兄・五瀬命と共に、5月8日に茅渟の海大阪湾)の雄水門泉南市、男神社)を通り、紀の国の竃山に来ている。そして、軍中で五瀬命が亡くなったので竃山に葬った。和歌山市和田に五瀬命を祭神とする竃山神社がある。神社に隣接する丘の上の墳丘を陵墓に比定している。 

磐余彦尊は名草邑に進軍し、名草戸畔賊を討った。そして佐野を越え、熊野の神邑に至り、天磐盾に登っている。その後、海を渡るとき急に暴風に遇い、船が翻弄され進まい状態にあった。それでもなんとか磐余彦尊と皇子の手研耳命は軍を率いて進み、熊野の荒坂の津、別名丹敷浦に着き、丹敷戸畔を討っている。なお、書紀は海を渡るときの暴風で、兄の稲飯命と三毛入野命が亡くなったと記載している。この二人の兄は、これまでの神武東征の記事には全く出ず、この記事のみに出てくる。そもそも、男兄弟4人全員が東征に出ることは不自然なことで 、この二人の兄は日向に残っていて、国の守りについていたと解釈する。二人の兄が亡くなったのは別の理由があり後述する。

名草邑」は紀三井寺のあるに名草山周辺「佐野」新宮市佐野「熊野の神邑」新宮市付近、「天磐盾」は100m近い断崖絶壁のある神倉山、あるいは神倉神社の御神体である巨岩ゴトビキ岩としている。荒坂の津(丹敷浦)については不明としているが、熊野市の東北にある二木島湾付近だとする説がある。

 磐余彦尊が紀伊(和歌山市)から熊野(新宮市・熊野市)まで行き、そこから吉野に向け北上していく必然性が全くない。東征を信じる人は、紀の川を遡上して吉野に向かったと考え、神武東征を信じない人は、これを論拠として挙げ、神武東征は創作されたものだと言っている。
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