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74-6.百済の肖古王は倭国に新しい文化をもたらせた [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z483.国宝七支刀.png奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。一般的には次のように読み下している。
表「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。百兵を避け、侯王に供する宣し。口口口作」。

裏「先の世以来、未だこの刀は有らず。百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。後世に伝え示せ。」


神功52年に、次のような文章がある。「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、『わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。』と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って、『今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない』といった。それ以後毎年相ついで朝貢した。」

 

『書紀』に記載された七枝刀は、間違いなく石上神宮所蔵の七支刀である。この七支刀が製作され倭王に供された年は、金象嵌はその年を「泰和4年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はなく、東晋の太和4年(369年)であろうと言われている。一方、神功52年は、『書紀』の編年に120年プラスした372年で、「新縮900年表」で応神19年にあたる。七枝刀は、百済の肖古王が369年に造って、372年に応神天皇に献上したものであることが分かる。『三国史記』によると肖古王の薨去375年となっており、七支刀の献上は死の3年前である。『書紀』に記載された、肖古王が孫の枕流王に「死んでも何の悔いもない」と語ったのは遺言で、史実であると考える。

 

話しは変わるが、私は古墳3294基(前方後円墳1922基)のデータを集め、130種の古墳の遺構・遺物の編年を行い、古墳の年代を決定した。そのなかで、古墳時代中期の始まりを380年としている。380年を境に、円筒埴輪は埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変り、須恵器・馬具・鋲留短冑が登場する。そして、「73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?」では、製鉄の開始は古墳時代中期の始まりであることを証明した。肖古王は346年から375年、応神天皇が354年から390年である。倭国と百済の交流が始まった366年から肖古王が薨去した9年間に、応神天皇は窖窯・須恵器は伽耶から、馬具・鋲留短冑・製鉄は百済の 肖古王から、新しい技術を導入し、そして、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石)、筒形・巴形銅器の古来の文化を捨て去ったのである。


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