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70-5.「甲類九州風土記」と『日本書紀』との先後関係 [70.新元号「令和」の深層]

「甲類九州風土記」の記述には、『日本書紀』と記述がほとんど同一の文章がある。その一例が『書紀』の景行天皇12年の「柏峽大野の蹶(くえ)石」の記事であり、『豊後風土記』の「蹶(くえ)石野」の記事である。
『日本書紀』 
天皇初將、次于柏峽大野。其野有石長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈土蜘蛛者、將蹶茲石如柏葉而焉。因蹶之。則如柏上於大虛。故號其石、曰蹈石也。」
『豊後風土記』
天皇土蜘蛛之、幸於柏峡大野。々中長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈曰、當蹶玆石、譬如柏葉而。即蹶之。騰如柏葉。因曰蹶石野」
黄色のマークが全く同じ文字で、その他にも「賊」と「土蜘蛛」の置き換え、「討」と「伐」や「舉」と「騰」の書き換えがある。これらを考慮すると同一の文章であることが分かる。


『豊後風土記』の「蹶(くえ)石野」の記事には、「蹶石野 柏原の郷の中にあり」との前書きがあり、柏原郷は直入郡の4郷の一つとなっている。この「柏原」は現存し、今は竹田市に編入されているが、以前は直入郡荻町柏原であった。『書紀』には「石室の土蜘蛛を襲ひて、稲葉の川上に破りて」、「柏峡の大野において」とある。九住山を源とする稲葉川は竹田市街地で大野川に合流する。この辺りは阿蘇外輪山麓で凝灰岩ということもあって、川が蛇行して曲所に切り立った断崖を作り、その崖には洞穴がある。「石室の土蜘蛛」とは断崖の洞穴に住む人々を指し、「柏峡」は柏原の峡谷を意味していると思われる。 それにしても『書紀』の記述した地名と地勢は現状と合っている。

 

Z428.甲類九州風土記天皇名.png『書紀』が述作されたのは大和である。大和にいる者が、阿蘇山麓の地名と地勢について、これほど正確に書くことができるだろうかとの疑問が湧く。これらからすると『豊後風土記』を参照にして『書紀』が書かれたと考える方が合っていると思える。一方、表Z428に逸文を含めた「甲類九州風土記」の天皇名と宮名を示しているが、「甲類九州風土記」の天皇名・宮名は『書紀』と一致している。天皇名からすると、『書紀』を参照して「甲類九州風土記」が書かれたと考える。「甲類九州風土記」と『日本書紀』との先後関係については、『書紀』を先とする説、両者を兄弟関係とする説、「甲類」を先とする説があるが、『書紀』を先とする説が定説で、「甲類」を先とする説は少数派である。


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