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70-4.粟田真人は風土記編纂の詔を受ける [70.新元号「令和」の深層]

『翰苑』の全巻を太宰府に寄贈した粟田真人は、唐から帰国した4年後の和銅元年(708年)3月から、霊亀元年(715年)6月頃まで筑紫大宰師として大宰府に在任している。筑紫大宰師として在任中の和銅6年(713年)5月に、諸国に風土記の編纂を命ずる「詔(みことのり)」が出されている。『古事記』が撰上された翌年のことである。「詔」は「解」と呼ばれる官命であり、好字を着けた郡・郷の地名、郡内の産物の品目、土地の肥沃の状態、山川原野の名前の由来、伝承されている旧聞異事 5項目について、史籍(歴史を記述した書物)に書いて報告しなさいというもので、地誌の編纂を諸国に要求している。

この官命に対して諸国が提出したであろう史書が、『風土記』として5つが写本として現存している。『出雲国風土記』は完本として、『常陸国風土記』・『播磨国風土記』・『肥前国風土記』・『豊後国風土記』が一部欠損して残っている。また、その他にも後世の書物に引用された、逸文と呼ばれる風土記が20ヶ国ある。ただし、逸文とされるものには奈良時代の風土記の記述であるかどうか疑わしいものも存在している。

 

和銅5年(712年)に『古事記』が撰上され、和銅6年(713年)に風土記の編纂を命ずる「詔」が出され、養老4年(720年)に『日本書紀』が撰上されている。これらから、「古事記→風土記→日本書紀」の順番に成立したと考えることが出来る。しかし、そうは言えない決定的な証拠がある。『出雲国風土記』の巻末の奥書に、「天平五年二月卅日 勘造」の文章がある。「勘造」は筆録編纂すると言う意味であり、『出雲国風土記』は天平5年(733年)に成立したことが分かる。 

昭和の初め国文学者の井上通泰氏は、九州地方の風土記(以後「九州風土記」と呼ぶ)が甲類・乙類・甲乙以外の三種に分類出来ると発表した。甲類は『豊後国風土記』・『肥前国風土記』・同種の風土記逸文で、行政区分が「郡・郷・里」、天皇名は『日本書紀』の表記と同じである。乙類は行政区分「縣」で、天皇名は『古事記』『日本書紀』と違っている。その他は天皇名に奈良時代の天平宝字6年(762年)頃に淡海三船により命名された漢風諡号(崇神・景行・応神)を使用している。

 

風土記編纂の官命と行政区分の推移(郡里制→郡郷里制→郡郷制)を基準にすると、『肥前国風土記』・『豊後国風土記』の成立は715年(或いは718年)から740年の間で、「古事記→風土記」であることは分かるが、『日本書紀』との前後関係は定かではない。井上通泰氏は『豊後』『肥前』の両書(以後「甲類九州風土記」と呼ぶ)の体裁が全く一緒で、文辞・用字の酷似することから、大宰府で同一人により一括編纂されたと主張し、これが通説となっている。風土記編纂の詔を受けた大宰府長官の粟田真人は、甲類九州風土記の編纂にどう関わったのであろうか。


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