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61-4.小山田・菖蒲池古墳は蘇我蝦夷・入鹿の双墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z184.小山田遺跡.png今年(平成29年)3月1日橿原考古学研究所は、奈良県明日香村川原の小山田遺跡で横穴式石室の羨道遺構の一部が見つかり、遺跡は方墳であると確定され、一辺約70mとなる可能性が高まったと発表した。墳丘盛土中からは、6世紀後半代の土器類とともに、7世紀前半の軒丸瓦片が出土しており、小山田遺跡(古墳)の築造時期が7世紀前半以降であるとしている。同時代の大型方墳である推古天皇陵とされる山田高塚古墳(長辺約60m)、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回っており、小山田古墳は飛鳥時代の最大級の方墳である。

 

Z185.小山田古墳イネージ図.png平成25年には、小山田遺跡からは長さ約48m、幅は上部約7m、底部約4m、残存する深さ約1mの石材を敷き詰めた掘割が発見されている。墳丘側の斜面には板石が階段状に積まれ、2段目までの板石が緑片岩で、その上の板石は榛原石であった。掘割には崩れ落ちたと見られる板石が多量に堆積していた。橿考研は図185のようなイメージ図を作成している。掘割を埋めた土中に含まれる土器の年代から、古墳は築造からあまり年月を経たない7世紀後半には廃絶したと考えられた。

 

 榛原石を使った板石積みは、舒明天皇陵とされる桜井市忍阪の段ノ塚古墳と共通しており、橿考研の菅谷文則所長は被葬者について「642年に最初の陵に葬られた舒明天皇が候補」と説明している。一方、同時期に天皇に匹敵する強権を誇った蘇我蝦夷が642年に築いた墓と考える研究者もいる。 『書紀』は舒明天皇の陵と蘇我蝦夷の墓について、次のように記している。

舒明13年(641年)10月:舒明天皇崩御、宮の北で殯。

皇極元年 (642年)12月:舒明天皇の葬儀を行い、滑谷岡に葬る。この年蘇我蝦夷は国中の民や
    多くの部民を徴発して双墓を今来に造る。大陵を蝦夷大臣の墓とし、小陵を入鹿臣の墓とした。

皇極2年(643年)9月:舒明天皇を押坂陵に葬った。

 皇極4年(645年)6月:蘇我入鹿が大極殿で誅殺され、翌日蝦夷が自宅で自害した。蘇我蝦夷・入鹿
   を墓に葬ること、哭泣が許された。

 

今回発見の小山田古墳の羨道に使われていた石の抜き取り穴は、長さ1.2mx幅1.4mと長さ1m以上x幅1.5mで穴間の距離(羨道幅)は2.6mであった。さらに北に約10メートル離れた場所にも抜き取り跡が見つかり、羨道が北に延びていることも分かった。石の高さは不明であるが羨道に巨石が使用されていたと考えられる。石舞台古墳の羨道幅2.1~2.6mと比較すると、小山田古墳の石室は石舞台古墳と同等あるいはそれ以上であると推察される。

 

Z186.蘇我蝦夷・入鹿双墓.png小山田古墳が舒明天皇(在位19年)の初葬墓であるという見解に対して、1年間しか埋葬しなかった初葬墓が、36年在位した推古天皇の陵よりも大きな方墳であること、石室が舞台古墳なみの大きさであることに疑問を感じる。私は、小山田古墳は蘇我蝦夷が国中の民や多くの部民を徴発して今来に造った双墓の内の大陵であると考える。それならば、入鹿の墓とされる小陵が近くになければならない。図Z186は橿考研が平成25年と平成29年に造った小山田遺跡の図面を合成したものである。小山田古墳から小さな谷をへだてた西100mのところに、方墳の菖蒲池古墳が小山田古墳と同じ向きに存在する。平成29年3月の橿考研の「小山田遺跡第8次発掘調査報告書」と平成27年1月の橿原市教育委員会の「埋蔵文化財報告 菖蒲池古墳」とを比較すると、両者の石室中軸線が北より14度傾いて一致していることが分る。菖蒲池古墳と小山田古墳は双墓の関係にある。

 

菖蒲池古墳は墳丘の封土の流失・改変が著しく、横穴式石室の玄室天井石は地表に露出しており、羨道の天井石も失われていたが、数度の発掘調査により、一辺30mのほぼ正方形の方墳で、二段築成と考えられている。上段・下段の墳丘裾には基底石が並べられ、基底石の前面には幅2.2~2.5mの石敷(3~5㎝の河原石)の平坦面がある。墳丘の東側と北側には幅6m以上、深さ2m以上の濠(掘割)があるが、掘割には石敷はなく地山が露出している。墳丘・掘割の仕上げ方は菖蒲池古墳と小山田古墳は同じではなく、小山田古墳の方が豪華であるように思える。出土遺物から古墳の築造は飛鳥Ⅱ古の時代、640年~660年代の間と見られ、小山田古墳と同時期である。

 

Z187.菖蒲池古墳の石棺.png菖蒲池古墳の玄室は半加工の自然石を使用し、長さ7.2m、幅2.6m、高さ2.6mで漆喰が厚く塗布され、家形石棺が2基縦一列に並べられており、石棺の内部は2基共に漆で塗られている。石棺の内部が漆で塗られていることは、他に類例のないことだ。私は、この2基の石棺には蝦夷と入鹿が葬られていると考える。乙巳の変によって入鹿が誅殺され蝦夷が自害したが、葬儀(哭泣)が行われることや墓に葬ることが許されている。蘇我蝦夷・入鹿は自らが造っていた双墓の小陵・菖蒲池古墳に埋葬され、大陵・小山田古墳は取り潰されたのであろう。巨大方墳である小山田古墳が築造後あまり年月を経たないうちに廃絶しているのはこの為であろう。『書紀』は双墓を今来に造ったとあるが、「今来」とは雄略紀7年条にみえる百済から新たにやって来た工人(陶部・鞍部・画部・錦部)、「今来才人(いまきのてひと)」が住んだ土地を指し、高市郡南部の檜隈を中心とした地で、小山田古墳・菖蒲池古墳も含まれている。


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