SSブログ

61-5.八角墳に埋葬された斉明天皇 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

平成22年9月明日香村教育委員会は、明日香村大字越にある牽牛子塚古墳で墳丘を取り囲む八角形(一辺9m、幅1m)の石敷遺構が見つかったと発表した。牽牛子塚古墳は三段築成の八角墳で、墳丘底辺の対辺は22m、高さ4.5m以上である。また、白色凝灰岩の三角柱状の切り石が数百個以上出土しており、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたと見られている。二上山の凝灰岩の巨石を刳り貫いた石室は、幅5m・奥行き3.5m・高さ2.5mで、石室中央に間仕切り壁を設け2つの墓室があり、夫々に棺を置く為の棺台が削り出しで造られている。牽牛子塚古墳からは、天武持統天皇陵にも用いられている夾紵棺(麻布を漆で何重にも貼り重ねて作る)の破片が以前に出土している。

 

Z189.牽牛子塚古墳.png

牽牛子塚古墳周辺の発掘現場を埋め戻す最中、古墳の南東約20mに埋まっていた越塚御門古墳が発見された。4m大の石英閃緑岩の上石をくり抜き、長さ2.4m、幅0.90m、高さ0.6mの石槨が造られていたが、後世の盗掘で4分の3程度失われていた。越塚御門古墳の床部分から漆膜片が数点出土し、束明神古墳や高松塚古墳・キトラ古墳からも出土した、高位の人物に使う漆塗り木棺が納められていたことが伺える。

 

牽牛子塚古墳が斉明天皇の越智崗上陵であると確実視されたのは、八角墳であること、当時の最高級の棺である夾紵棺の破片が出土していることだけではない。『書紀』天智6年(667年)2月の記事、「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女(斉明天皇娘、孝徳天皇皇后)を小市(おち)崗上陵に合葬し、皇孫大田皇女(斉明天皇孫、天智天皇娘)を陵の前の墓に葬った。・・・皇太子(称制:天智天皇)は群臣に語って、『私は皇太后天皇の勅を承って以来、万民を思いやるがために、石槨の役を起さない。どうか永代までも戒めとして欲しい。』と言われた。」と合致していたからである。牽牛子塚古墳には石室が2室あって夫々に棺台があり、斉明天皇と間人皇女を合葬したとある記述と、牽牛子塚古墳の開口部の20m先にある越塚御門古墳が、大田皇女を陵の前の墓に葬ったとある記述と、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳がともに岩をくり抜いた横口式石槨で、石槨の役を起さない(石積みの横穴式石室は造らない)との記述と合致している。

 

宮内庁は牽牛子塚古墳から約2.5km離れた高取町大字車木にある車木ケンノウ古墳(円墳)を斉明天皇陵(越智崗上陵)として、その南約80mにある古墳(円墳)を大田皇女墓として管理している。『書紀』天武8年(679年)3月の記事に「天皇が越智に行幸し、後岡本天皇(斉明天皇)の陵を拝した。」とある。車木ケンノウ古墳を越智崗上陵と治定したのは江戸時代末の文久年間で、その根拠は地名からで、車木ケンノウ古墳が車木村と越智村の境にある「天皇山」と呼ばれる山の頂にあったからであるらしい。しかし、牽牛子塚古墳の地は天武天皇が飛鳥御浄原宮から越智に行幸する途中にあり、牽牛子塚古墳の地も越智とは無縁ではない。

 

Z190.斉明天皇陵.png

畿内で八角墳と確実視されているのは、段ノ塚古墳(舒明天皇陵)、御廟野古墳(天智天皇陵)、野口王墓古墳(天武持統天皇陵)、束明神古墳(草壁皇子?)、中尾山古墳(文武天皇陵?)の5古墳で、被葬者(推定者を含め)は7世紀半ばから8世紀始めに亡くなった天皇やその近親者である。斉明天皇陵が八角墳の牽牛子塚古墳とすると、推古天皇以降の天皇陵は徳天皇陵を除いて、舒明天皇陵・斉明天皇陵・天智天皇陵・天武持統天皇陵と八角墳である。徳天皇陵のみが円墳であることが気になるところである。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。