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61-1.都塚古墳は蘇我稲目の墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z170.都塚古墳のイメージ.png平成26年8月明日香村教育委員会と関西大学が、明日香村阪田にある都塚古墳は一辺が約40mの方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状の形をしていると発表して、考古学者や考古学フアンを驚かせた。階段ピラミッド状の形をしているとしたのは、墳頂部に近い東斜面から石積みの階段が4段見つかったからだ。1段の高さは30~60cmで、段の部分には拳大から人頭大の石を垂直に積み上げている。その後の発掘調査で、墳丘の南東コーナー部分からも階段状遺構が3段分確認され、古墳は高さ7m、5段以上の階段ピラミッド状の方墳であることが確認された。発掘を担当した関西大の米田文孝教授は「階段状構造については疑問を持つ考えもあったが、少なくとも墳丘上部は階段状をしていたことが裏付けられた。高句麗の積石塚などの影響を受けた可能性もある。」としている。

 

都塚古墳の埋葬施設は全長12mの両袖式横穴式石室で、長さ2.2mの刳り抜き式家形石棺が収められている。石棺の蓋は6個の縄掛式突起を持ち、その形状から古墳の築造年代は6世紀後半から6世紀末と比定されていた。蘇我馬子とされる石舞台古墳に近いこと、両者とも周濠をもつ方墳であることから、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。

 

階段ピラミッド形の都塚古墳のルーツは、高句麗の王陵・将軍塚に代表される方壇階梯積石塚(方形階段式積石塚)に求められている。方形階段式積石塚は高句麗の都が鴨緑江流域の集安(中国吉林省)にあった国内城(342年~426年)の時代に盛んに造られ、都が大同江流域の平壌に遷都した427年以降は造られていない。ソウル市石村洞の石村洞古墳群にも数基の方形階段式積石塚がある。これは百済の都が漢江流域にあった漢城(~475年)の時代、3世紀末から4世紀に造られたと見られている。

 

Z171-Z173.集安積石塚と将軍塚.png

蘇我稲目の墓が、高句麗の方形階段式積石塚の影響を受けて、階段状ピラミッド形に築造されたとなると、蘇我稲目あるいは息子の蘇我馬子が高句麗あるいは百済の方形階段式積石塚の知識があったことになる。その可能性はあるのだろうか。『書紀』欽明23年(562年)の記事に、「大伴連狭手彦が数万の兵を率いて、百済の計略を用いて高麗(高句麗)を撃破した。狭手彦は勝ちに乗じて宮殿に入って珍宝・財貨などを奪い帰還し、七織帳を天皇に献上し、甲・金飾刀・銅鏤鐘・五色幡と美女媛・従女吾太子を蘇我稲目大臣に送った。大臣は二人の女を召入れて妻とし、軽の曲殿に住まわせた。」とある。

 

『書紀』の編纂者は、この記事が史実かどうかを見極める史料が無かったのであろう、文注には「一本(或る本)云う、欽明11年(550年)に大伴連狭手彦が、百済国とともに高句麗王陽香(陽原王)を比津留都(未詳)に追い退けた。」とある。『三国史記』百済本紀、聖王28年(550年)には、「聖王は将軍の達己に一万の兵を率い、高句麗の道薩城(忠清北道槐山郡槐山面)を攻め落とさせた。」とある。欽明11年に大伴連狭手彦が、百済国とともに高句麗を退けたことは史実であろうが、欽明23年の記事とは別のことであると考える。

 

『書紀』欽明紀には「百済本記云」と、『百済本記』の引用記事が14ヶ所出てくる。その引用の最後は欽明17年(556年)正月で、百済の聖明王(聖王)が新羅に殺された2年後のことである。これ以降『書紀』は『百済本記』を引用していない。『百済本記』は聖明王の時代までが書かれてあったと思われる。欽明23年(562年)の大伴連狭手彦の活躍の記事は史実であったが、それを伝える歴史書がなかったと考える。大伴連狭手彦の攻め込んだ高句麗の宮殿は、都のあった平壌ではなく、475年以降高句麗が支配していた百済の旧都・漢城にあったと思われる。大伴連狭手彦あるいは蘇我稲目の妻となった美女媛は、ソウル市石村洞の石村洞古墳群にある数基の方形階段式積石塚を見ていて、蘇我稲目にその話をしたのかも知れない。

 

欽明26年(565年)の記事に「高麗人・頭霧唎耶陛等が筑紫に来朝したので、山背国に住まわせた。今の畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖である。」とある。山背国の奈羅については、平安時代の『和名抄』に「山城国久世郡奈羅郷」が見え、現在の京都府八幡市上奈良・下奈良の地であるとされている。八幡市奈良から北東6kmの宇治市菟道にある隼上り瓦窯跡からは、飛鳥寺(法興寺)の後に創建された豊浦寺に使われていた高句麗系軒丸瓦が出土している。また、『新撰姓氏録』には、「長背連、高麗の国主鄒牟[一名、朱蒙](高句麗始祖)より出るなり、天国排開広庭天皇[諡、欽明]の御世、衆を率いて投下す。」とある。欽明26年の記事は史実であると考えられる。蘇我稲目は頭霧唎耶陛から、高句麗の広開土王(好太王)の墓・将軍塚は、方形階段式積石塚であると聞いたのかも知れない。

 

蘇我稲目が薨去した欽明31年に高麗の使いの船が越の浜に漂着した。高麗の使いは近江に着いたあと飾り舟に迎えられ、山背の相楽館(京都府相楽郡)で饗応を受けた。欽明32年に欽明天皇が崩御され、翌年に敏達天皇が即位し、蘇我馬子が大臣となった。高麗の使者は敏達天皇に上表文を奉り、7月に帰国の途についている。蘇我馬子は父・稲目が亡くなった前後に高麗人と接しており、稲目が望んだ方形階段式積石塚が、高句麗では王や高位のものの墓であったことを知ったのであろう。馬子は都塚古墳を、邸宅の方形池の石組みを行った倭漢(東漢)氏の配下の渡来人に造らせたと考える。蘇我稲目の都塚古墳が造営されて以降、蘇我氏との関わりある天皇や氏族、そして崇仏派の豪族が大型方墳を造営するようになったと思われる。


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