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60-8.岩屋山式石室と横口式石槨の年代 [60.古墳時代の終焉]

前方後円墳終焉とともに古墳時代が終わり、飛鳥時代に入っても円墳・方墳を中心とした古墳が作られ終末期古墳と呼ばれている。終末期古墳の横穴式石室の構造においては、精微に加工された花崗岩の切石で造られた横穴式石室が登場する。この代表的な古墳が奈良県明日香村大字越にある岩屋山古墳(方墳)と大阪府太子町にある聖徳太子墓とされている叡福寺北古墳(円墳)である。その他にムネサカ古墳(円墳:奈良県桜井市)、小谷古墳(墳形?:奈良県橿原市)、嶺塚古墳(円墳:奈良県天理市)が挙げられる。

 

Z167.岩尾山式石室.pngこのような石室構造を持つ横穴式石室を白石太一郎氏は「岩屋山式石室」と呼び、1967年発表の「岩屋山式の横穴石室について」では、その実年代を7世紀第二四半期と考えられていた。これは叡福寺北古墳が聖徳太子墓であり、聖徳太子の没年が621年頃であることが根拠となっている。しかし、白石氏の1982年発表の「畿内における古墳の終末」では、「岩屋山式の絶対年代は7世紀の中葉前後からそれ以降に下げざるをえないことになるのである。」としている。岩屋山式石室の年代が揺れ動いている。

 

終末期古墳の横穴式石室の形状においては、羨道幅と玄室幅が同じ無袖式が増加している。そして、玄室幅が羨道幅あるいは前室幅より小さい横口式石槨が奈良・大阪を中心として登場してくる。横口式石槨には石槨の小口部が開口する羨道の無いタイプのものもある。横口式石槨の構造には、①横穴式石室の延長で自然石を積み上げたもの、②家型石棺に横口を開けたものを石槨に転用したもの、③花崗岩・閃緑岩の切石で造ったもの、④凝灰岩・安山岩の切石で造ったもの、⑤石材磚を積み上げて造ったもの、⑥蓋石を刳り抜き底石に被せたもの、⑦石を刳り抜き石槨を造ったものなどがある。これらの横口石槨のなかで③④⑤⑥には漆喰が使われている。横口石槨の代表的な古墳を下記に列挙した。

   ①平尾山13-1号(大阪府柏原市)、雁多尾畑古墳(大阪府柏原市)、オウコ1号(大阪府羽曳野市)、
    獄山古墳(奈良県宇陀市)
 ②お亀石古墳(大阪府富田林市)、松井塚古墳(大阪府太子町)、徳楽山古墳(大阪府羽曳野市)、
    鉢伏山南峰古墳(大阪府羽曳野市)
  ③御嶺山古墳(大阪府太子町)、シシヨツカ古墳(大阪府河南町)、アカハゲ古墳(大阪府河南町)、
    ツカマリ古墳(大阪府河南町)
  ④観音塚古墳(大阪府羽曳野市)、平野塚穴山古墳(奈良県香芝市)、束明神古墳(奈良県高取町)、
    高松塚古墳(奈良県明日香村)、キトラ古墳(奈良県明日香村)
  ⑤花山西塚古墳(奈良県桜井市)、舞谷3号(奈良県桜井市)
  ⑥石宝殿古墳(大阪府寝屋川市)、御坊山3号墳(奈良県斑鳩町)、鬼の雪隠俎(奈良県明日香村)、
    越塚御門古墳(奈良県明日香村)
  ⑦牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)、小口山古墳(大阪府羽曳野市)、益田岩船(奈良県橿原市)

 

葛城山西麓にある平石谷の下流より上流へかけて築造された平石古墳群にシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳がある。三基とも大型方墳で埋葬施設は花崗岩の切石で造られた横口式石槨である。表Z169に墳丘・周濠・埋葬施設・副葬品を掲げた。いずれの古墳も天皇陵に匹敵する規模である。アカハゲ・ツカマリの両古墳が終末期古墳の様相を呈しているのに対して、シシヨツカ古墳は後期古墳と終末期古墳の両方の様相を呈し、後期古墳から終末期古墳への過渡期に築造された古墳と考えられている。古墳の築造順位はシシヨツカ古墳→アカハゲ古墳→ツカマリ古墳である。

 

Z168.Z169.平石古墳群.png

アカハゲ・ツカマリ古墳の出土した遺物は少ないが、シシヨツカ古墳は平成11年に発見されたこともあって盗掘されていたが豊富である。装身具ではガラス玉・金糸・垂飾部品・銀製帯金具・指環、武器では鉄刀・刀子・鉄鏃、大刀では象嵌の柄頭・鞘尻・装具など、武具では挂甲小札類、馬具では鞍金具・轡・鐙・杏葉・雲珠、容器では漆塗籠棺がある。大刀の柄頭・鞘尻・装具の文様は、銀象嵌の亀甲繋鳳凰文で古墳時代後期半ば(6世紀半ば)のものと、金象嵌の雲竜文で飛鳥時代のものがある。また、漆塗籠棺は明らかに飛鳥時代のものだ。シシヨツカ古墳が後期古墳と終末期古墳の両方の様相を呈している。

 

シシヨツカ古墳から出土した須恵器は、前室出土の須恵器四耳壷(陶邑Ⅱ/4)1点、羨道の須恵器甕(陶邑Ⅱ/4・5)とその1点に納められた高杯(陶邑Ⅱ/4)4点がある。これらの須恵器はその出土状態から、この古墳の葬送礼に伴って用いられた土器であると考えられている。これらより、シシヨツカ古墳の築造年代は陶邑Ⅱの4段階と5段階の境頃と考えられる。中村浩氏の須恵器の編年で、陶邑Ⅱ4段階はTK43、陶邑Ⅱの5段階はTK209に相当する。須恵器からみてTK43とTK209の境は、古墳時代(後期古墳)と飛鳥時代(終末期古墳)の境である。シシヨツカ古墳が後期古墳から終末期古墳への過渡期に築造された古墳と考えられているのはこのためであろう。私の須恵器の編年でいうと600年前後ということになる。

 

シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳の3基の古墳から、漆塗籠棺片が出土している。これらの漆片の加速度質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定が行われている。漆はAMS法による年代測定には良い試料とされている。

          暦年代範囲(確立68%) 暦年代範囲(確立95%)  

シシヨツカ古墳  618年~654年  595年~665年

アカハゲ古墳   640年~666年  610年~685年

ツカマリ古墳   599年~644年  555年~655年

3基の古墳の築造順位はシシヨツカ古墳→アカハゲ古墳→ツカマリ古墳である。3基の古墳の築造年代は測定された値の信頼性が95%の確立である歴年代範囲の中にあるとすると、シシヨツカ古墳の築造年代は600年、アカハゲ古墳は625年、ツカマリ古墳は650年と定めることが出来る。

 

シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳の3基の古墳は花崗岩の切石を使い、漆喰を使って仕上げている。精微に加工された花崗岩の切石で造られた横穴式石室(岩屋山式石室)にも目地に漆喰が使われており、花崗岩・閃緑岩の切石で造られた横口式石槨と切石・漆喰の2点が共通している。古墳時代・飛鳥時代を通じて、漆喰が使われている古墳は40基程見つかっている。その古墳の墳形には前方後円墳は一基も無い。このことからして、花崗岩・閃緑岩の切石で造られた横穴式石室(岩屋山式石室)と横口式石槨の年代は、前方後円墳終焉後の600年以降、飛鳥時代のものであることは確かである。シシヨツカ古墳の築造年代が600年頃となると、岩屋山式横穴石室の実年代も7世紀第二四半期とか、7世紀の中葉前後からそれ以降とかではなく、7世紀第一四半期ということになるのではなかろうか。


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乃木慧

日本の古代史解明手段として、国民の財産である日本書紀は用いられていない。書紀に隠されていた史実をあぶり出し、邪馬台国と大和王権の関係を明らにする。
 ↑
日本国民が待ち望んでいた、真実の古代史研究に踏み込んで戴いて有難うございます。
当に我が意を得たりの内容です。
by 乃木慧 (2017-06-21 19:46) 

t-tomu

コメント有難うございました。『日本書紀』は、時間軸が引き伸ばされてあったり、物語化されていたり、誇張があったり、後世に使われた語句を使用していたりしていますが、その根底には史実が書かれていると考えています。戦後の歴史研究は『日本書紀』を否定することに力が注がれた傾向にあります。『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』のなかで、著者の市大樹氏は「1990年代前半に日本古代史の勉強を始めた私は、大化の改新を否定する研究に多大な刺激を受け、天武・持統朝を重視する見方に共感を抱いていた。しかし2000年代になって、出土したばかりの飛鳥の木簡を自ら整理するようになると、天智朝を従来よりも評価すべきと考えるようになり、大化改新も基本的には認めてよいのではないか、と思うようになってきた。」と記しています。『日本書紀』から史実を引き出す研究が、大手を振って登場してくることを待ち望んでいます。
by t-tomu (2017-06-22 09:46) 

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