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56-1.葛城氏の始祖・葛城襲津彦 [56.葛城氏の系譜と興亡]

『紀氏家牒』には、「武内宿祢の子はあわせて九(男子七、女子二)。葛城国造荒田彦の女の葛比売を娶って襲津彦宿祢をもうけた。」とある。葛城襲津彦の父は武内宿禰、母は葛城国造荒田彦の娘・葛比売である。襲津彦の誕生は326年から329年であるが、単純化するために326年として話を進める。襲津彦は武内宿禰(誕生302年)が25歳の時に、長男として生まれている。葛城襲津彦の妻についての史料はないが、母・葛比売の兄弟の子を娶ることにより、祖父葛城国造荒田彦の領地、葛城地域の北半分(葛下郡・忍海郡)の大部分を支配するようになったと考える。

Z112.葛城四邑2.png襲津彦は父・武内宿禰の威光もあって26歳の351年[神功5年]([ ]は「縮900年表」による年号」)に、新羅の人質の微叱許智旱岐の一時帰国に付き添って新羅に遣わされた。対馬で新羅の使者の策略により人質が逃亡したので、襲津彦は新羅に行き城を攻め落とし、捕虜を連れて帰還している。新羅から連れ帰った捕虜を住まわせた葛城四邑は、桑原(葛上郡桑原郷、現:御所市池之内)、佐糜(葛上郡佐味、現:御所市東佐味・西佐味)、高宮(葛上郡高宮郷、現:御所市鴨神・伏見・高天)、忍海(忍海郡、現:葛城市新庄)である。367年[応神14年]襲津彦42歳の年に、新羅が邪魔をして加羅国に留まっている百済の弓月君の百二十県の人夫を、召還するように加羅に派遣されたが、3年たっても帰国しなかった。369年[応神16年]に平群木菟宿禰と的戸田宿禰の精兵が新羅と対峙して、襲津彦の帰国がかなった。

375年頃、
襲津彦51歳頃に武内宿禰が亡くなり、襲津彦は長男として武内宿禰の墓(室宮山古墳)を造営し、そして武内宿禰の本拠地、葛城地域の南半分(葛上郡)の地も引き継いだ。葛城襲津彦の支配する領域は葛城地域の全体に広がった。襲津彦の娘・磐之媛は382年[仁徳2年]に仁徳天皇の皇后になった。この382年(壬午)に襲津彦は57歳で、朝貢しなかつた新羅を討伐するべく派遣された。その時のことを『百済記』は「壬午の年に新羅が貴国(倭国)に朝貢しなかったので、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。沙至比跪は新羅の差出した美女を受け取り、反対に加羅を討った。加羅の王は百済に逃げ倭国に来て、その事を訴えた。天皇は大いに怒られ、木羅斤資を加羅に遣わして、国を回復させたという。一説には、沙至比跪は天皇の怒りを知り、ひそかに帰国し隠れていた。皇宮に仕えている妹に、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は『今日の夢に沙至比跪を見ました』と天皇に申し上げた。天皇は「沙至比跪はなぜ来たのか」と怒られた。妹は天皇の言葉を伝えた。沙至比跪は許されないと知り、石穴に入って死んだ。」と記している。

沙至比跪と葛城襲津彦が同一人物であることは明らかで、「皇宮に仕えている妹」が磐之媛である。「密かに帰国した」場所は葛城ではなく、百済・韓・新羅の出先機関のあった筑紫であったと考える。「石穴」とは古墳の横穴式石室のことで、襲津彦は石穴に入り亡くなったのではなく、亡くなって横穴式石室に葬られたと考える。筑紫平野にある老司古墳は、四世紀後葉の九州型横穴式石室を持つ前方後円墳である。古墳からは最も古いタイプの三角縁神獣鏡が出土しており、大和との結びつきが感じられる。また、初期の須恵器(TK73型以前)や馬具も出土しており、朝鮮との通交も明らかである。老司古墳は葛城襲津彦の墓ではないかと空想する。

葛城襲津彦の娘・磐之媛は、仁徳天皇の浮気に耐えかねて、399年に灘波の宮を出て山城の筒城(綴喜)に宮室を造り住まわれた。そのとき、奈良山を越え葛城を望んで詠んだ歌。
「つぎねふ 山城川を 宮上り 我が上れば 青丹よし 奈良を過ぎ  小楯 大和を過ぎ 
 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」
(山城川を遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、
 私のみたいと思う国は、葛城の高宮の我が家のあたりです。)
磐之媛にとっては葛城の実家に帰りたかったのであろうが、父の葛城襲津彦は筑紫に移り住み、既に亡くなっており、帰る実家も無かったのであろう。






 


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