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38-5.山田史御方はα群の述作者か [38.日本書紀の述作者は誰か]

山田史御方は新羅に学問僧として留学していたが、『金光明最勝王経』に関係あるのだろうか。『三国史記』新羅本紀によると、聖徳王2年(703年)に、日本国から総勢204人の使者が来た。同3年(704年)3月に、入唐していた金思譲が帰国し『最勝王経』を献上したとある。続日本紀にも703年の遣新羅使のことは記載されており、この一行に山田史御方が居たとすれば、帰国は学問僧義法・義基等と同じ慶雲4年(707年)5月となり、『金光明最勝王経』を写経し持ち帰ったことの可能性は十分ある。 

『書紀』の持統6年(692年)10月に、「山田史御方に務広肆を授けられた。先に沙門となって、新羅に学問をしに行ったものである。」とある。山田史御方が学問僧として新羅行っていたのは692年以前であり、『金光明最勝王経』とは関係ない時期であった。『続日本紀』の慶雲4年(707年)4月に、「賜正六位下山田史御方布鍬塩穀。優學士也。」とあり、慶雲4年(707年)5月に帰国した船には、乗船していなかったことが分かる。山田史御方は『金光明最勝王経』を新羅より持ち帰ったことはなかった。 

山田史御方は、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であり、文章に優れた者として二度にわたって賞賜を受けている。しかしながら、山田史御方は唐への留学経験がない。新羅に留学していたことから、漢文にも長けていたと思われるが、正音・正格漢文を書くことは出来なかったと考えられ、α群の述作者とは違うように思われる。山田史御方は、森博達氏の言われるように、倭人が倭音・和化漢文で述作したとするβ群の、述作者Aとして最適任者であると考える。
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