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16-5、万葉集に詠われた神功皇后 [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

津田氏への反論から離れて、神功皇后存在の可能性を探って見たい。万葉集5-813番に神功皇后を詠った山上憶良の歌がある。

「かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまうと い取らして 齋ひたまいし ま玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇御魂 今の現に 貴きろかも」 

口に出して申し上げるのも憚られる。神功皇后様が、新羅の国を平らげて、御心をお鎮めになりたいと、手に取られ、祈願なさった、宝玉のような二つの石を、人々にお示しになり、万代まで語り継ぐようにと、深江の里の、海のほとりの子負の原に、ご自身の手でお置きになって以来、神として神々しく鎮座なさる、この不思議な霊威を持つ御魂の石は、今も目の前にあって、なんとも尊いことよ。
 

この歌には前書きがある。「鎮懐石を詠む歌一首、筑前国怡土郡深江子負原、海に臨ひたる丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ1尺2寸6分、小さきは長さ1尺1寸、ともに楕円にして、鶏の子の如し。その美好きこと、勝へ論ふべからず。いはゆる径尺の壁これなり。深江の駅家を去ること二十里ばかり、路頭に近くあり。公私の往来、馬より下りて跪拝まざるは莫し。古老相伝へて曰く、いにしえ息長足日女の命、新羅の国を征討たまひし時、この両つの石を用いて御袖の中に挿著みたまひて、以て鎮懐と為したまふと。所以行人此の石を敬拝すといへり。」
 

書紀には「時がたまたま皇后の臨月になっていた。皇后は石をとって腰にはさみ、お祈りしていわれるのに、『事が終わって還る日に、ここで産まれて欲しい』。その石は筑前怡土郡の道のほとりにある。」と書かれてある。山上憶良の歌は何時詠まれたのだろうか。製作年月は記載がないが、山上憶良は726年に筑前守に任命され、天平2年(730年)に松浦(唐津市)で神功皇后が立ったという魚釣の石を歌に詠んでいる。怡土郡深江は松浦に行く途中にあり、鎮懐石の歌も天平2年に詠まれたのであろう。
 

津田氏は神武天皇から仲哀天皇までの記紀の記載について、「記紀の上代の部分の根拠となっている最初の帝紀旧辞は、6世紀の中頃の我が国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想を以て、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。そうしてそれは、少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考えを以て幾度も潤色せられ或いは変改せられ、記紀の記載となったのである。だから、其の種々の物語なども歴史的事実の記録として認める事は出来ない」と総括を行っている。
 

山上憶良が730年に鎮懐石を見ているのは史実であろう。古事記(712年)は鎮懐石が「筑紫国伊斗村にあり」と記載、書紀(720年)は「筑前怡土郡の道のほとりにある」と記載されており、鎮懐石は記紀が書かれる以前からあったに違いない。神功皇后が創作された人物で、神功皇后の新羅征伐が創作された物語ならば、その創作は大和でなされたと考える。口伝えが主であった時代、大和で創作された物語が九州に伝わり、誰かが創作の物語を史実に見せかけるために伊斗(怡土)に鎮懐石を置き、そして、そのことが大和に伝わって、鎮懐石が伊斗(怡土)にあると記紀に記載される。そんな過程を津田氏は考えておられるのだろうか。それはあまりにも出来すぎた話である。
 

鎮懐石そのものが史実かどうかわからないが、神攻皇后が新羅から還られて、筑紫で応神天皇を産まれたのは史実であると思われる。風土記(肥前・播磨・常陸)にも、神功皇后の名が多数出て来る。また、書紀の神功紀に書かれてある神社(筑紫大三輪・長門住吉・広田・生田・長田)は現存する。神功皇后は実在したのであり、日本書紀の描く古代史は史実を反映していると考える。

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