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16-4.新羅に黄金文化が花開いた時代 [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

幾ら川床に砂金が眠っていても、それを採ろうとするモチベーションがなければ、金の採取には結び付かない。三国志東夷伝の馬韓の条には「不以金銀錦繍為珍」とあり、金や銀、錦や繍は珍重されないとある。新羅の前身の辰韓も同じであつたと推察する。新羅人はいつ金銀を知ったのであろうか。 

奈良国立博物館では、わが国出土の黄金製の装身具も陳列し「日本のものは新羅のものに比べて細工の精度などで数段劣る」とコメントしている。それほど新羅の黄金製品の細工の技術レベルは高いのである。「これらの黄金は北方の騎馬民族との交易などで得られたのではないかと見られている」と、その細工技術も北方の騎馬民族から来ているものと考えられている。三国志東夷伝の高句麗の条には「衣服は皆、錦繍金銀で以って飾る」とあり、また、夫余の条には「以金銀で以て帽子を飾る」とある。高句麗は扶余の別種で、その他多くの点で夫余と同じでと記してあり、高句麗も帽子を金銀で飾っていたであろうと推察する。高句麗では金工人の技術レベルは高かったと思われる。
 
図50母丘倹.jpg
騎馬民族の国・扶余の系統である高句麗の歴史を見ると、三国志よると景初3年に魏の司馬宣王が遼東の公孫淵を討伐した時、高句麗は兵数千人で魏に加勢している。しかし、正始3年には高句麗が魏に反逆して鴨緑江河口付近に侵攻したため、毌丘倹は正始5年(244年)とその翌年に、高句麗の討伐を行っている。図50に毌丘倹の侵略要路を示す。図は『古代朝鮮』、井上秀雄、NHKブックスを参照した。三国史記によると、246年に高句麗は大敗し死者1万8千を出したが、東川王は九死一生を得て帰国し、都を王険に移している。
 毌丘倹が高句麗の都・丸都城を陥落させた245年、都で金細工をしていた工人が兵士共々黄草嶺を通り濊に入り、南下して辰韓との境、現在の蔚珍郡まで逃げて来て住み着いたと推察する。

三国史記に、245年高句麗が新羅北部国境を侵したので、于老が軍隊を率いて出撃したが勝てず、馬頭柵まで退却したとある。馬頭柵の注釈には京畿道抱川郡抱川面(ソウル北北東50㎞)とあるが、新羅北部国境であり得ない。245年の高句麗と新羅の初めての接触は、毌丘倹に追われた蔚珍郡まで逃げ込んだ高句麗兵との接触の事であると考える。
 

蔚珍郡に住みついた高句麗人は、すぐに平海で砂金を見つけたと推察する。図49には慶州の北90㎞にある平海の海岸近くに、白亜紀の金鉱床が存在していることが図示されている。そして、高句麗人は金の細工物で新羅の王族に取り入り、そのリーダーであった金氏一族の味鄒が王族の昔氏の娘を娶り、262年には新羅の王まで上りつめたと想像する。味鄒王は金氏の初めての王であるが、始祖は閼智といって、鶏林(味鄒王陵のある地域)の木の枝にあった金の小箱から出て来たとされている。金氏とは金に関係する氏族であり、味鄒王が金氏の始祖でないかと考える。
 

味鄒王が亡くなる頃には、平海で採れる砂金の量も減り金氏の力は低下し、王位は昔氏に引き継がれた。4世紀になって金氏は洛東江の東岸部で砂金を発見して、勢力を盛り返し、356年に味鄒王の甥である奈勿が王となった。奈勿王(356年~402年)は洛東江の東岸部までを支配下に治め、新羅東部地域で多くの砂金を採る事が出来るようになり、新羅の黄金文化が花開いたと考える。そして新羅の領土拡大で、大伽耶の陜川・高霊にも黄金文化が芽生えた。慶州の黄金文化の最盛期は、5世紀初めから6世紀半ばまでの150年間とされているが、その最盛期は50年遡り、4世紀の半ばから6世紀の初めと考える。新羅で金が採れた事が認知されれば、黄金文化の編年も変わってくるだろう。 

慶州からは日本の土師器と石(くしろ)(4世紀末~5世紀初め)も出土しており、4世紀中頃には新羅と倭国には交易があったと考えられる。味鄒王(262年~284年)の時代に新羅では黄金文化が芽生え、奈勿王(356年~402年)の時代に黄金文化が花開いたとするならば、4世紀半ばに新羅が「宝の国」「金銀が多く在る国」であるという話は、倭国まで伝わっていたであろう。金・銀・彩色を求めた神功皇后の新羅征伐(353年)は史実として成り立つ。

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