SSブログ

14-5.二人の大田田根子 [14.大田田根子の謎を解く]

平安時代の初め、桓武天皇の延暦17年(798年)10月に、太政官から所轄の官司に下された「太政官符」がある。これは「出雲の国造が神事にかこつけて、多くの百姓女子を娶り、妾と為すことを禁ず」というものであった。「三輪山の神々」と言う本に塚口義信氏は次のように書いている。「出雲の国造は、出雲大社の神主を兼任し、その新任式のときに、たくさんの百姓の女子を娶っていました。そこで、ときの政府は、こうしたみだらな慣習を廃止しようとしたのです。・・(中略)・・こうしたことは、出雲大社の神主だけでなく、九州宗像神社の神主も行っていたので、『筑前宗像の神主、此れに(なら)へ』といっています。」 

書紀には仁徳天皇41年に、「阿知使主らが呉から筑紫についた。そのときに宗像大神が工女らを欲しいといわれ、兄姫を大神に奉った。」とある。また、雄略天皇14年に、「3月臣連に命じて、呉の使いを桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を、大三輪神社に奉った。」とある。大三輪神社の神主も宗像神社の神主と同様、女子を妾にする習慣があったのであろう。
 

陶津耳の娘が朝鮮半島から倭国にやって来たとき、
大三輪神社の神主が陶津耳の娘を奉ったと考える。陶津耳の住んでいたのは、茅渟県の陶邑の大田であり、陶津耳の女は注目の美女であったがゆえに、奇日方天日方の妻の玉依姫と混同され、大田田根子の母であると伝承されたと思われる。崇神紀に大物主神を祀る祭主として登場する大田田根子と、陶津耳の女を母とする大田田根子は、時代も違う大神(三輪)氏一族の別人であろう。書紀では安康天皇3年(463年)に三輪君身狭が登場する。陶津耳の女を娶ったのは、たぶん身狭の祖父であろう。そうすると、二人目の大田田根子は、三輪君身狭の父、大神氏系図によると三輪石床であると想像する。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。