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15-1.津田史学に挑戦 [15.神功皇后新羅征討は創作か]

日本書紀は古代の歴史を知るための、わが民族の宝だと私は思っている。しかし、書紀を基にして古代史を語る歴史学者は非常に少ない。戦前は、書紀に書かれた歴史は全て正しいとされた。戦後は、書紀に書かれた推古より以前の歴史は、歴史の対象でないと全て否定され、戦後65年経った現在でも、その呪縛から完全には脱却出来ていない。その大きく振れた振り子の渦中にいたのが、津田左右吉氏である。氏は1961年(昭和36年)に88歳の生涯を終わるまで、日本および東洋の思想史研究に大きな業績を残した学者であり、1949年(昭和24年)には文化勲章を受賞している。津田左右吉氏は大正時代に「神代史の研究」と「古事記及日本書紀の研究」を出版し、神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。神武天皇から神功皇后までは史実かどうか疑わしいという説をとなえた。 

満州事変が起こり自由主義的な言論が弾圧されると、津田氏の著作にも、皇室の権威を冒瀆するものだと圧迫が加えられ、1940年(昭和15年)には前述の著書を含む4冊が発売禁止となり、早稲田大学教授を辞職、出版法違反の裁判に掛けられた。第二次大戦後津田氏は華々しく蘇り、日本書紀・古事記を近代的な史料批判の観点から批判・否定したことが、多くの学者の支持を受け史学会の常識となった。津田氏は記紀に書かれた応神天皇より以前の歴史を消しただけだったが、戦後の史学会は、推古より以前の歴史までを消し去ってしまった。
 

近年、考古学の発掘が数多く行われ、科学的機器が取り入れられるに及んで、日本書紀が史実を書いていると見直されることも増えて来て、日本書紀の復権がなされて来たが、仁徳・応神天皇ですら、まだ完全に信用された訳でなく、神功皇后以前となるとほとんど信用されてなく、まだ津田氏の呪縛に囚われている。古墳時代の王権を大和王権とせず、ヤマト王権と表現するのは、その最たるものである。私は日本書紀の復権の突破口として、津田左右吉氏の神功皇后論に挑戦してみたいと思う。文化勲章を受章した大学者に挑戦するなんて、そんなアホな、ドンキホーテもいい加減にしろと言われるかも知れない。しかし、私には勝算がないわけではない。実際に「古事記及日本書紀の研究」にある神功皇后について読んでみると、足元にも及ばない論拠が展開されているわけではなかった。
 

私には武器が二つある。津田氏が亡くなられて50年、その間、考古学は大きな飛躍を遂げている。各地に博物館も出来、講演会も多く開かれている。それらの情報を私は知ることが出来る。もう一つの大きな武器は、インターネットである。フリー百科辞典「ウィキペディア」は何でも載っている。もちろんそれらは正確ではないが、参考文献の記載から、何を読めば良いかが分るし、その文献は何処の図書館にあるかがすぐ分る。その他にもインターネットで得られる情報は沢山ある。狭い分野に限れば、学者の足元におよぶくらいの知識は得られる。津田氏は古事記・日本書紀の両方を対象としておられるが、私は日本書紀の記述についてのみ検討していく。津田氏の文章は津田左右吉全集第一巻、岩波書店から引用した。

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