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10-3.東莱山の尚方で9寸の鏡を作る [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

晋の葛洪(283~343年)は「抱朴子」に神仙の術や錬丹の術を書いている。その抱朴子の巻十五雑応には「明鏡の九寸以上を用いて自ら照らし思在する」とあり、巻十七登渉には「古の入山の道士は、皆明鏡の径九寸以上なるものを以て、背後に懸る」とある。方士が金丹を造り出すためには、直系九寸(21.cm)以上の鏡で身を守る必要があった。尚方で九寸の鏡を作るために、洛陽から鏡の師を呼び、近くの徐州から銅を取り寄せた。鉛と錫は入手出来たのが僅かであった。  

黄金を造るためには丹砂が必要不可欠である。そこで丹砂の情報を集めるために、手みやげ品の鏡を青龍三年(235年)に作った。師が洛陽より持って来た方格規矩鏡を参考にして、見た通りの模様を鋳型に刻んだ。そのため、鏡ではHVLのLの字が反対を向いてしまった。鈕孔は丸よりも長方形にすると鋳型が傷まなかった。

図27渤海航路.jpgこれらの鏡は幽州の丹砂情報を得るため、東莱郡治所の黄県の港(竜口市)から船で碣石(秦皇島市)に持ち込まれた。黄県と碣石間の航路は戦国時代から開けていたようで、前漢の武帝もこの航路を通っている。図27の古代渤海航路概念図は「渤海紀行 古代中国の港を求めて」、髙見玄一郎、ぎょうせい、より参照・加筆した。福永伸哉氏の「三角縁神獣鏡の研究」によると、前漢や新の方格規矩鏡とは逆の正L字文を持ち、鈕孔が長方形の鏡が、幽州の秦皇島市撫寧県から2枚、北京市順義県と保定市易県から各1枚出土している。こららの地は、いずれも碣石(秦皇島市)の近くである。また、公孫氏の本拠地の遼寧省の遼陽からも1枚出土している。橿原考古学研究所所長  (図をクリックすると大きくなります)
の菅谷文則氏は山東省の691面の銅鏡の調査を行い、その中
に長方形の鈕孔を持つ鏡を見つけている。
 

方格規矩鏡の一部は船で黄県より遼東半島・帯方郡を経由して倭国へと運ばれた。帯方郡は公孫氏の管轄下にあったが、商売ベースの物の取引には問題はなかった。魏の使者はこれらの鏡を倭国の伊都国に届け、丹砂・鉛(方鉛鉱)・錫(錫石)、および真珠を集めておくように、それを帝に献上すれば何倍ものお返しが貰える事を伝えた。錫も魏の国では手に入らない資源であった。使者が倭国を訪れた事は、中華思想のため公式記録には載らなかった。
 

我国では、青龍三年銘を持つ正L字文・長方形鈕孔の方格規矩鏡が高槻市の安満宮山古墳、京丹後市の大田南5号墳から各1面が出土している。正L字文・長方形鈕孔の方格規矩鏡は、京都府の椿井大塚山古墳、福岡県津古生掛古墳、熊本県向野田古墳、鳥取県馬山4号墳から各1面が出土している。
 
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