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10-2.丹砂を化して黄金となす [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

古代には金の採集は砂金のみで、中世に行われた「鉱石を砕き、水銀を加えてアマルガムを作り、それを焼いて水銀を飛ばして金を得る」、金鉱石の製錬は行われていなかった。しかし、この技術は古代の金メッキと同じであり、金が含まれた鉱石の存在を知ったならば、金鉱石の製錬が十分可能だったと考える。ヨーロッパの錬金術は、銅・鉄・錫などを金に変えることを目的としたが、中国の錬金術は鉱石から金を取り出す事にあったと思われる。ただ、それらは道教の方士により、秘密の技とされていたであろう。 

この金を作り出した人物が、前漢で最も権勢をふるった武帝(前140~前87)に登用された方士欒大だ。彼は「丹沙を化して黄金とし、黄河の水をふさぎ、不死の薬を手に入れ、仙人を降ろす事が出来る」と言って、1ヶ月の間に4個の金印を作った。これを喜んだ武帝は、欒大に4つの将軍職を与え、自分の娘を娶らせている。
 

欒大は山東半島にある膠東国の尚方であった。この「尚方」について唐の学者の顔師古は「方薬をつかさどる官」と注釈している。彼が仕えた康王は、武帝とは異母兄弟で、武帝も皇太子の時には膠東王であった。膠東国は宮廷と強く結びついた国であり、宮廷の方薬を作る出先機関の「尚方」があったと考える。欒大の妻は彼の住んでいる邑の名を取り当利公主と呼ばれた。当利は膠東国の西北端(莱州市沙河鎮南王家村)にあった。この近くの東莱山では、武帝が探し求めた、仙薬に使う最高の薬草、芝草(霊芝)が採れたと史記に記載されている。東莱山は莱州市から東5mの大基山(莱州市)、または南20kmの大澤山(平度市)と言われている。
 

方士は丹砂に色々な鉱物を入れて、仙薬の金丹を作っていた。欒大は偶然に金鉱石を用いて、「丹沙を化して黄金とする」ことが出来たのであろう。しかし「黄河の水をふさぐ」とか「仙人を降ろす」などは大ボラで、これらがバレて武帝に殺されている。後漢の中頃に班固が書いた漢書には、史記と同じように欒大のことを書いてある。これを見た魏の官吏は、東莱山付近に尚方を置き、方士に錬金・錬丹の術で黄金と仙薬を造り出すことを命じたと考える。そのためには、丹砂が必要であった。
 

図26平度金鉱山.jpg大澤山の東10kmに明の時代に開坑せられていた平度金鉱山がある。この鉱山の校区には砂金地もあるそうで、鉱脈は地表近くにあると推定出来る。日本は大一次世界大戦後、山東省の権益をドイツから継承した。その時鉱山の調査もなされ、平度金鉱山のことは、それらの資料に載っている。図26は山東省の招遠から掖県(莱洲)における金鉱床(
◐)を示す。これらは地質ニュース436号、「中国の鉱物資源」、岸本文男を参照・加筆したものである。この地区は金の鉱床が多く、現在では山東省が中国一の金の産地になっている。
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