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69-2.須恵器の形態変遷は曲線で表せる [69.須恵器の型式をAIで判定する]

須恵器の形態の変遷について私が知っていることと言えば、坏身(つきみ)の立上りは時代と共に低くなる。はそうの頸の長さと高坏(たかつき)の脚の長さは時代と共に長くなることくらいである。これらの形態の変遷がどう変化しているかを散布図に表わすことから始めた。これらのデータは、『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』(中村浩著)と『古墳出土須恵器集成 第1巻』(中村浩編)の大阪府・和歌山県から須恵器の図面を抽出し、パソコンのペイントにコピーして須恵器の各部分の座標を読んで数値化した。なお、はそうにかぎってはデータが少ないので、『古墳時代の研究 土師器と須恵器』にある岡山・広島からデータを追加し抽出した。

 

坏身の立上りの型式別形態変化は“立上り/器高(KH/CH)”、はそうの頸の長さの変化は“頸長/胴長(ND/BH)”、無蓋高坏の脚の長さの変化は“坏部長/脚長(CH/LH)”で縦軸に、横軸は“編年No(Hen-No)”で表し、散布図(Z363)に示した。どの図を見ても同じ型式内でのバラツキが大きく、その型式の前後と重なりあっている部分が多い。しかし、大きく見れば夫々の形態は“うねり”のような変化をおこしていることが分かる。この形態変化の変遷の“うねり”を曲線にしてあらわせば、須恵器研究のプロでなくても須恵器の型式を判定することが出来るようになると思われる。

 

散布図のデータを統計的に処理し、回帰曲線(中心的な分布傾向を表す曲線)を導きだすことは、Python(パイソン)と言うAIなどを作るプログラムで可能である。これまでも「67-9.古墳の編年の年代観は正しいか?」で、日本列島の主要な古墳の編年を行った51名の考古学者の年代観を知るために、回帰直線を導き出した。ただ、今回は直線でなく、曲線であることが難しい所である。

Z363.須恵器の形態変遷.png

 

Pythonを勉強していると、機械学習という分野でガウス関数を使用すれば、散布図のデータから回帰曲線を導きだすことが分かった。ガウス関数という内容は良く分からないが、須恵器の形態変化を示す“うねり”の回帰曲線を導きだすことが出来ることは分かった。そして、標準偏差(シグマ、σ、SD)も算出されることから、中心曲線から±1σの曲線を描けば、異常値等を取り除いたデータの68%を包含する曲線を描くことが出来た。散布図のデータをpythonのガウス関数のプログラムに取り込み、須恵器の型式別形態ガウス曲線を描き図Z364に示した。赤が中心の曲線で緑が±1σの曲線である。これで、須恵器の型式による形態変化を曲線の帯として表せることが出来た。

Z364.須恵器の形態ガウス曲線.png

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69-1.須恵器の型式の判定基準はイメージ? [69.須恵器の型式をAIで判定する]

古墳の築造年代を決定する指標は、一に円筒埴輪型式、二に須恵器の型式である。円筒埴輪(含む朝顔形円筒埴輪)の型式はⅠ期~Ⅴ期の5型式に分類され、古墳時代の前期から後期までを網羅している。この円筒埴輪の型式は1980年代に30歳代の川西宏幸氏によって構築されたものである。川西氏はその特徴を、焼成(有黒班・無黒班)、2次表面仕上げ(A種ヨコハケ・B種ヨコハケ・ナシ)、底部調整、突帯(突出・台形・山形)、スカシ穴形状(△・▽・□・○)、突帯間のスカシ穴数(3個以上、2個)に分類した。この型式の分類は簡単明瞭で考古学のプロでなくても容易に判定出来る。

 

須恵器の型式は、窯跡の出土資料により型式が決められ編年されている。窯の出土資料を型式に採り入れたのは森浩一氏であった。堺市・和泉市にまたがる泉北丘陵には須恵器の窯跡が多数発見され、陶邑窯跡群と呼ばれている。田辺昭三氏は泉北丘陵で初めに開発された陶邑窯跡群の東半の高蔵(TK)・陶器山(MT)地域の窯跡から出土した須恵器の編年を行い、古墳時代に限ってみればⅠ期(5型式:TK73TK47)・Ⅱ期(5型式:MT15TK209)に分類している。中村浩氏はその後に開発された陶邑窯跡群の西半の栂(TG)・大野(ON)・光明池(KM)地区から出土した須恵器を加えて、古墳時代に限ってみればⅠ型式(5段階)、Ⅱ型式(6段階)に編年している。ただ、古墳の遺物としての須恵器の型式は、1983年に発表された田辺昭三氏の編年に基づいて表記されている場合が多い。

 

これら陶邑須恵器編年について植田隆司氏は、「古墳時代須恵器編年の限界と展望」(2008)の中で、「従前の陶邑須恵器編年を、古墳時代中期・後期資料の時期を判断する時間尺として活用する場合、現時点においては、次の2つの問題が内在している。1点めは各型式の実年代比定の問題である。古墳の築造年を推定する際に、研究者によって須恵器の特定の型式に想定する実年代が大きく異なり、研究上の障害になりつつある。2点めは、研究者間において須恵器編年(型式同定)観が概ね等しく共有されていないことである。田辺編年を用いて特定資料の型式を同定する場合、各人が標式として念頭に置く基準資料のイメージと照らし合わせることになるが、この概念的な基準資料のイメージが研究者によって大なり小なり異なっている。このため、ある研究者がTK43型式と判断する杯身は、他の研究者にはTK209型式と判断されてしまう事態も発生する。」と述べている。

 

Z362.須恵器の型式編年.png植田氏が指摘する1点めの実年代については、私は全国の前方後円墳(6305基、含む前方後方墳)のなかから、須恵器の型式が明らかにされている216基の古墳について、古墳の遺構・遺物の関係を調べ、須恵器の年代を10年単位で割り出した(表Z362)。しかし、2点めの須恵器型式の同定については、その判定基準が私にはブラックボックスで、手におえるものではない。須恵器型式の同定は研究者個人の標式として念頭に置く基準資料のイメージと照らし合わせて行われているようだ。現在、AI(人工知能)での画像処理はめざましく発展しており、顔認識システムが犯罪捜査で威力を発揮している。須恵器型式の同定もイメージからAIで画像処理する時代になるのではないかと考える。それに先駆け、須恵器の型式をAIで判定することに挑戦してみたい。

 

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68-10.記紀が定めた天皇陵は規模・年代に齟齬は無い [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

円筒埴輪の型式ⅣをB種ヨコハケで細分化する埴輪検討会編年(Z355)において、御廟山古墳はⅣ-1に属し、大仙古墳と田出井山古墳はⅣ-2に属し、ニサンザイ古墳はⅣ-3に属している。ニサンザイ古墳と御廟山古墳のBb・Bc・Bd・タテハケの比率を求めてみた。宮内庁書陵部発行の陵墓関係報告書の円筒埴輪の図面を見ていていると、ひとつの円筒埴輪の中にBbとBc、あるいはBcとBdの両者があることが分かった。そのため、突帯と突帯の間の段ごとにB種ヨコハケの種類を決めることにした。なお、最上部で広く開いている段、最下段の底部の段、片側の突帯の無い段はデータを取る対象としなかった。

Z355.円筒埴輪の編年.png

 

Z360.Bd出現頻度.pngZ360の表において、BcとBdは同じで技法であるとして合計すると、御廟山古墳とニサンザイ古墳の値(Bc+Bd)はどちらも82%と同じである。そして、Bbは御廟山古墳が7%多く、タテハケはニサンザイ古墳が6%多いことから、傾向としては御廟山古墳(Ⅳ-1)よりニサンザイ古墳(Ⅳ-3)の方が新しい傾向にはあるが、時代を画するまでではないと思える。それならば、田出井山古墳(Ⅳ-2)とニサンザイ古墳(Ⅳ-3)の比較において、両者に差があるのか疑問が湧いた。

 

田出井山古墳(反正天皇陵)の円筒埴輪資料は、宮内庁が平成6年に刊行した「埴輪Ⅱ」の出展目録には胴部が8個とあり、それ以降の宮内庁書陵部の調査でも円筒埴輪片が採取されたのは僅かである。堺市は昭和55・62年に田出井山古墳の宮内庁管轄外の二重濠・外堤の発掘調査を行い、円筒埴輪の樹立痕は無かったが、多量の円筒埴輪片を採取している。昭和55年の調査報告書ではサンプル92片の中で外面調整について、①B種ヨコハケ(過半数を越える)、②タテハケ(含むナナメハケ)、③A種ヨコハケ(例外的)の順位としている。

 

円筒埴輪の最下段の底部の段の外面調整は、ヨコハケが施されることなくタテハケのみである。また、広く湾曲している口縁部の外面調整もタテハケが多い。円筒埴輪の外面調整の種類の比率を求める場合、これらを除外しなければならない。埴輪片でタテハケと判定できるのは、タガ(凸帯)の両側がタテハケである場合のみである。そういう目で昭和55年の92片の図面を見ると、ヨコハケ53片、タテハケ4片でタテハケ比率は7%である。昭和62年の調査報告書では、外面調整のコメントは無いが、45片の図面から前掲の条件でデータを集計するとヨコハケ33片、タテハケ4片でタテハケ比率は11%であった。

 

円筒埴輪の外面調整におけるタテハケの比率は、田出井山古墳が7〜11%、ニサンザイ古墳が8%であり、両者の円筒埴輪はほぼ同じ時期に製作されたと思われる。そもそも、履中天皇の崩御と反正天皇の崩御の差は記紀共に5年である。円筒埴輪の制作は古墳造成の最終段階で、天皇が崩じられた後に作られるとするならば、両古墳の円筒埴輪の制作時期の差も5年となる。この5年で制作技法に時代を画するような差が現れてくるようにも思えない。天皇陵は皇太子になった年から後円部の造営を行う寿陵であり、大仙古墳が仁徳天皇陵、土師ニサンザイ古墳が履中天皇、反正天皇陵が田出井山古墳に比定出来る。

 

大阪府立狭山池博物館では「樹木年輪と古代の気候変動」の令和元年特別展を開催していた。この特別展では、ニサンザイ古墳の北側くびれ部の周濠から笠形木製品などと折り重なって出土したヒノキ製の板状木製品の年輪年代が“427年+α”と測定され、辺材幅が3.8センチとかなり広く、樹皮直下の年輪に近いところまで遺存していることから430年頃の伐採と推定されていた。「縮900年表」によれば履中天皇の崩御は437年であり、年輪年代測定はニサンザイ古墳が履中天皇陵であることに肯定的である。

 

私は全国の前方後円墳(6305基、含む前方後方墳)のなかから、円筒埴輪の型式が明らかにされている977基の古墳について、円筒埴輪の型式(川西編年)と古墳の遺構・遺物の関係を調べた。それらの間に齟齬をきたすような事例は僅かであり、川西編年の素晴らしさを実体験した。B種(Bb・Bc・Bd・欠落)ヨコハケは全国の古墳で見受けられる。しかし、埴輪検討会編年が百舌鳥・古市古墳群のみしか適用できないのは、宮内庁管理の陵墓・陵墓参考地からの資料数が少ないことが原因していると思われる。出現頻度により年代を決める場合、資料が少ないと「群盲象を評す」となってしまう。

 

これで前方後円墳に治定されている天皇、崩じた年が分かっている皇后の御陵の全てを比定することが出来た。宮内庁の治定と変わったのは、仲哀天皇陵が津堂城山古墳(陵墓参考地)、履中天皇陵が土師ニサンザイ古墳(陵墓参考地)、雄略天皇陵が河内大塚古墳(陵墓参考地)、仁賢天皇陵が岡ミサンザイ古墳(現仲哀天皇陵)、継体天皇陵が今城塚古墳(国の史跡)、宣化天皇陵が平田梅山古墳(現欽明天皇陵)、欽明天皇陵が見瀬丸山古墳(陵墓参考地)の7陵であった。Z361見直した後の天皇陵の一覧を示す。記紀が記載した陵墓の地、古墳の規模や形態、考古学上の埴輪型式や須恵器型式の年代、そして「縮900年表」の天皇崩御の年に齟齬は生じていない。それは『古事記』『日本書紀』が史実に基づいて天皇陵を定めているからである。

Z361.天皇陵・皇后陵.png

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68-9.Bd種ヨコハケを解剖する [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

『百舌鳥・古市の陵墓古墳』(近つ飛鳥博物館、2011年)の「百舌鳥・古市古墳群と円筒埴輪研究」には、外面2次調整のB種ヨコハケをBb・Bc・Bdに細分した埴輪検討会の円筒埴輪編年表が掲載されている。Z355はそれを書き直したものである。『近畿地方における大型古墳群の基礎的研究』(六一書房、2008年)の中で、堺市文化財課の十河良和氏は、「田出井山古墳の円筒埴輪について、外面2次調整のB種ヨコハケは欠落する割合が低く、Bb種・Bc種が主体である。Bc種・Bd種ヨコハケが主体となり、外面2次調整が中型品で2割以上欠落する土師ニサンザイ古墳より、田出井山古墳のほうが先行する可能性が高い。」と述べている。要は、B種ヨコハケが「Bb→Bc→Bd→欠落」と変遷する中で、田出井山古墳はBb・Bcが主体で、ニサンザイ古墳はBc・Bdが主体であり、その上ヨコハケの欠落(タテハケ)が2割以上あり、ニサンザイ古墳の方が田出井山古墳より新しいという論拠であった。これでは、ニサンザイ古墳が履中天皇、反正天皇陵が田出井山古墳ということが全く否定されてしまう。B種ヨコハケの細分化による編年がそれほど正確なものか、特に編年の決め手になっているBdヨコハケについて検討することにした。

 

平成20年に御廟山古墳(陵墓参考地)で宮内庁が墳丘調査を、堺市が濠の調査を同時期に行つている。また、平成24年にニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地)でも同様の調査が行われている。これらは宮内庁書陵部発行の陵墓関係報告書に詳細が記載されており、全ての円筒埴輪の図面が掲載されている。出土した埴輪と底部がある埴輪の数からみると、御廟山古墳から出土した円筒埴輪の総数は60〜70本で、ニサンザイ古墳からは80〜90本であるように思えた。

 

Z355.円筒埴輪の編年.png

陵墓関係報告書の図面を見ていて思ったことは、ハケの静止痕が垂直なのがBc,斜めに傾いているのがBdと明確に分かれているのではなく、その中間でどちらに判断したらよいか分からないものが多数あることであった。ハケの静止痕が斜めになるBdのハケ目はどうしたら付けられるか、Z356にその模式の写真を示した。ハケが直線の場合は、①のように円柱に垂直にハケをあてると、静止痕が垂直なBcとなる。②ハケを斜めにしたのではハケの両端に隙間が出来、Bdヨコハケは不可能である。③のような弓形のハケでは、ハケを円柱に垂直に当てると、ハケの中央に隙間が出来る。④のようにハケを斜めすると隙間はなく静止痕は斜めのBdとなる。Bdヨコハケはハケが弓形に凹んでいることから起る現象である。

 

Z356.直線ハケと弓形ハケ.png

Z357の模式図により、御廟山古墳とニサンザイ古墳の円筒埴輪に現れたBdの静止痕の長さ(d)と円筒埴輪の軸と静止痕の角度(θ)、円筒埴輪半径(b)から、弓形ハケの凹み矢高(h)を求めた。hを求める公式は複雑なので記載しないが、興味ある人はグーグルで調べれば分かる。Z358に結果を示す。

 

Z357-Z358.Bd静止痕.png

Z359.ハケの凹みと静止痕角度.pngZ359からハケの中央部の凹みに応じて静止痕の傾きが大きくなっていくことが分かる。直径30〜40cmの円筒において、7〜8cmの幅のハケで、その中央が0.25mm凹めば15度傾き、0.5mmで25度、1mmで45度傾いた静止痕が出来る。このようなハケに凹みが出来る原因は、ハケを垂直にしてBcヨコハケの静止痕が生じる作業をするとき、実際には少しハケが傾き両端がほんの僅か隙間が出来る。その状態で全面が当たるようにハケ目を作ると、ハケの中央が両端より少し大きく食い込む。そのような作業を繰り返し続けていくとハケの中央部が両端部より磨耗してくる。ハケが弓形のように中央が凹むと、ハケを傾けないとハケの全面があたらなくなる。

 

ヨコハケが断続的で静止痕が重なる(ハケが表面より離れる)A種ヨコハケ、ヨコハケが継続的で静止痕が一筋(ハケが表面より離れない)B種ヨコハケの違いは、人が廻って作業するか、円筒埴輪を回して作業するかの違いで、回転台の登場という大きな画期がある。BbヨコハケとBcヨコハケの違いには、突帯間隔が均一になることで起り、突帯間隔を決める治具の開発という画期がある。それらに比べ、Bdヨコハケの斜めの静止痕は、作業の熟練度等により起るハケの弓形磨耗により生じるもので、Bcヨコハケと本質的には同じで、新たな技法が生じたわけではない。


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68-8.天皇陵は皇太子就任時から造られ始めた寿陵 [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

元奈良大学学長であられた水野正好氏は『考古学と自然科学 第31・32号』(日本文化財科学会、1995年)「古墳時代研究と自然科学」のなかで、百舌鳥耳原に築かれた仁徳・履中・反正について言及し、「仁徳天皇の在位期間は87年、陵墓開始から崩御までの時間は20年という歳月があります。ところが履中天皇は在位6年、70歳で崩じたと記されています。履中天皇陵と考えられる市谷古墳(百舌鳥陵山古墳)はその規模3位、仁徳、応神天皇陵に次ぐ規模を持っています。6年間での造営ではむつかしい規模雄大さを誇っています。履中天皇は仁徳天皇下の皇太子、その太子の期間は56年間、崩御70歳という状況を考えると皇太子の時代の築造であったのではないかと思えます。反正天皇は履中天皇の皇太子期間5年、在位5年という短い天皇です。それだけに雄大な古墳の造営はむつかしいと思います。田出井山古墳は小規模、故に天皇陵に非ずという説はむしろおかしく在位期間の短さが結果していると私は考えるのです。」と述べている。

 

水野氏は天皇の在位期間を書紀の編年通りに考え、そして履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳として論を組み立てている。私は、そのことには賛同しないが、陵の造営が皇太子時代から始まっていたとの見解からヒントを得て、「天皇陵は皇太子就任時から造られ始めた寿陵」と考えるようになった。河内大塚古墳がその前方部の土盛がなく周濠も浅いことから、未完成の雄略天皇陵と比定した。この事を論拠に私は、天皇陵は寿陵で即位の年から後円部の造営を行い、天皇が崩じると後円部の規模に応じた墳形が決められ、前方部が造営されると考えていた。しかし、水野氏の見解を参考にして「天皇陵は皇太子になった年から後円部の造営を行う寿陵である。皇后陵は皇后になった年から後円部の造営が始まる。」と考えるようになった。

 

「縮900年表」によれば、履中天皇が皇太子になったのは仁徳31年(400年)である。そして、天皇に即位したのが履中元年(432年)で、崩御が履中6年(437年)である。履中天皇陵は皇太子在位32年と天皇在位6年を合わせた38年に相当する規模になると考えられる。一方、反正天皇は皇太子になったのが履中2年(433年)で、即位が反正元年(438年)、崩御が反正5年(442年)である。反正天皇陵は皇太子在位5年と天皇在位5年を合わせた10年に相当する規模になる。これらより、履中天皇が墳丘290mのニサンザイ古墳であり、反正天皇陵が墳丘148mの田出井山古墳に比定することが出来る。

 

Z353.皇太子就任陵造営.pngZ353に天皇と皇后の天皇陵築造期間と墳丘長の関係を示す。天皇の陵築造期間は皇太子に就いた年から天皇の崩御まで、皇后の期間は皇后に就いた年から崩じた年までとしている。履中天皇陵(ニサンザイ古墳)、は反正天皇陵(田出井山古墳)である。Z351と比較すると、天皇陵は皇太子に就いた年から陵の造営が始まると考える方が、在位期間と墳丘長の関係のバラツキが少なくなっているのが分かる。大仙古墳が仁徳天皇陵、ニサンザイ古墳が履中天皇、反正天皇陵が田出井山古墳に比定出来る。

 

Z354.B種ヨコハケの変遷.png

古墳の築造年代を決定する指標は、一に埴輪型式、二に須恵器の型式である。近年、埴輪型式のⅢ式期とⅣ式期に現れる外面2次調整のB種ヨコハケをBb・Bc・Bdに細分し(Z354)、その出現頻度により年代を決めることが一瀬和夫氏により提案(1980年)され、百舌鳥・古市古墳群の古墳の築造年代の決定に利用されている。一瀬氏は、『百舌鳥最後の大王墓を探る』(堺市文化財課、2019)の中で、「私は土師ニサンザイ古墳の築造時期から言うと、被葬者は珍で反正天皇との伝承がある人物像である確立が95%超えていると思っています。」とある。考古学的に、田出井山古墳よりもニサンザイ古墳が新しいとしており、ニサンザイ古墳が履中天皇、反正天皇陵が田出井山古墳の比定を否定するばかりか、「天皇陵は皇太子になった年から後円部の造営を行う寿陵である。」との考えに大きな壁として立ちはだかっている。


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68-7.大仙古墳はなぜ仁徳天皇陵と認められないのか? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z351.天皇在位と墳丘長.png百舌鳥古墳群には全国第一位の規模を誇る墳長486mの前方後円墳の大仙古墳がある。記紀は仁徳天皇の御陵は百舌鳥野にあると記し、宮内庁は大仙古墳を仁徳天皇陵に治定している。「縮900年表」では、仁徳天皇(381年〜431年)の在位は51年間で、古墳時代の天皇(崇神天皇〜欽明天皇)の中では最長である。Z351が示すように、在位年数と古墳規模は概ね関係があり、在位が長い天皇陵の規模が大きく、在位の短い天皇陵の規模は小さいことが分かる。なお、これまでに見直した天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、雄略陵は河内大塚古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。『日本書紀』から編年した在位年数からしても、百舌鳥古墳群で最大規模の大仙古墳は仁徳天皇陵と言える。

 

中国の史書『宋書』倭国伝では、倭の五王の讃は421年・425年に遣使を行っており、そして珍が朝献した438年には讃は亡くなっている。このことから、讃が亡くなったのは425〜438年の間であることが分かる。讃が仁徳天皇であることは通説となっている。一方、大仙古墳の造出から出土した須恵器の大甕の型式はON46で、「箸墓260編年」では430年〜449年となる。大仙古墳の考古学上の築造年代と、『宋書』倭国伝に書かれた倭国王讃の崩じた年代、「縮900年表」による仁徳天皇の崩御の年は一致しており、大仙古墳を仁徳天皇陵に比定出来る。

 

それでも歴史研究者から「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」との異論が上がってくるのは何故であろうか。大仙古墳が仁徳天皇陵であることを確定するためには、記紀が百舌鳥耳原にあると記している履中天皇陵と反正天皇陵が確定されなければならないと考える。宮内庁は履中天皇陵を全国3位(墳長365m)の百舌鳥陵山古墳(石津ミサンザイ古墳)に治定し、反正天皇陵を全国73位(墳長148m)の田出井山古墳に治定している。履中天皇陵が百舌鳥陵山古墳であることに疑問を抱かなかった昭和の末までは、田出井山古墳は天皇陵としては規模が小さいと、百舌鳥古墳群の全国8位(墳長288m)の土師ニサンザイ古墳(ニサンザイ古墳)を反正天皇陵に比定する伝承や学者の説があった。宮内庁もニサンザイ古墳を反正天皇陵の陵墓参考地にしている。

 

1980年(昭和55年)代に川西宏幸氏が円筒埴輪(含む朝顔形埴輪)の型式を層別して古墳の年代を推定する指標を発表し、履中天皇陵に治定されている百舌鳥陵山古墳の埴輪型式がⅢ式、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳の埴輪型式がⅣ式であることが分かった。因みに、古市古墳群にある応神天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳(墳丘420m:全国2位)の埴輪型式はⅣ式である。履中天皇の御陵が父親の仁徳天皇陵(大仙古墳)、祖父の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)よりも古い古墳であることが分り、履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳に治定することが、考古学的に否定された。

 

Z352は百舌鳥古墳群にある大形前方後円墳について、築造年代の古い順番に並べている。この順番は『仁徳陵築造』(堺市博物館、2009年)に記載されたものを採用した。百舌鳥古墳群には埴輪型式が大仙古墳と同じⅣ式である大型古墳が5基ある。これらは須恵器の型式で層別され、大仙古墳より新しい古墳は田出井山古墳とニサンザイ古墳の二基のみである。堺市博物館の編年に従えば、田出井山古墳が履中天皇陵、ニサンザイ古墳が反正天皇陵となる。

 

Z352.百舌鳥古墳群.png

ニサンザイ古墳は墳長が290mで、全国第8位の規模の古墳である。反正天皇の在位は、『古事記』『日本書紀』共に5年である。全国第8位の規模の古墳が、在位5年の反正天皇の御陵であるとなると、在位年数と古墳規模(墳丘長)が関係しているとの考えは否定され、大仙古墳が仁徳天皇陵と言える大きな根拠が無くなってしまう。考古学者が未だに「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」としているのも、こんな所に原因があるのかも知れない。反正天皇の兄の履中天皇の在位は6年で、たとえニサンザイ古墳が履中天皇の御陵であったとしても、それは同じである。


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68-6.河内大塚古墳は未完成の雄略天皇陵 [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z351.天皇在位と墳丘長.png私は、十河良和氏の河内大塚古墳が未完成の古墳であることは賛同するが、その年代が6世紀中頃で安閑天皇の御陵として造られたということには賛同できない。古墳規模が全国第5位の河内大塚古墳が、前方後円墳を陵墓とする天皇の中で最も短い在位2年の安閑天皇の陵墓であるという説は、全く納得が出来ない。在位年数と古墳規模は全く関係ないと考えているのだろうか。表Z351が示すように、在位が長い天皇陵の規模が大きく、在位の短い天皇陵の規模は小さいことから、天皇陵の築造は寿陵であったことが分かる。なお、Z351の天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、雄略陵は河内大塚古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。

 

河内大塚古墳は後円部の盛土がほぼ出来上がり前方後円墳の形も整っているにも関わらず、前方部の盛り土がなく周濠も浅いことから、寿陵築造のシステムが分かる。天皇が即位すると、墓所を選び後円部の築造を始める。天皇が崩御されると後円部の大きさに釣り合った墳形を決め、周濠を掘りながら前方部の盛り土を行う。基本的には、在位年数が長いほど古墳の規模は大きくなるが、在位年数が少ない場合は、天皇崩御後に後円部の盛り土も行い一定の規模は確保する。在位年数と古墳規模は概ね比例すると思う。

 

未完成の河内大塚古墳が雄略天皇の陵墓として造られたことを証明する記事が『書紀』『古事記』に記載されている。『書紀』によると、雄略天皇が崩御すると第3子であった清寧天皇が即位した。清寧2年、播磨国司の伊予久目部小楯が明石で、雄略天皇に謀殺された従兄弟の市辺押磐皇子の子供の億計と弘計を発見した。清寧天皇は子供が無かったので宮中に引取り、億計を皇太子とし弘計を皇子とした。清寧5年、清寧天皇が亡くなると、弟の弘計は兄の皇太子であった億計(後の仁賢天皇)から天皇の座を譲られ顕宗天皇に即位した。

 

顕宗2年、顕宗天皇は億計皇太子に「わが父王は罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられた。仕返しに雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい。」と言われた。皇太子は「雄略天皇は天下を照臨され、都・田舎の人はみな喜び仰いだ。私たち兄弟は清寧天皇から厚い寵愛と深い恩を受けた。雄略天皇は清寧天皇の父である。陵を壊したりすれば、祖霊に仕えることも出来ないし、天下に臨み人民を子とすることも出来ない」と諫めた。そこで、民を使役することをやめられたとある。

 

雄略天皇は丹比高鷲の地を陵墓の地と定め、陵として後円部の築造を行っていた。雄略天皇が亡くなると清寧天皇は、立派な御陵を造ろうと、前方後円墳の形を決め、周濠を掘って前方部の盛り土を始めた。清寧天皇は在位5年で崩御されたときは、雄略天皇の御陵は未完成であった。その後の顕宗天皇は、雄略天皇への恨みもあって、民を使役し陵墓を完成させることも、埴輪を立てることもしなかった。

 

こう考えると、河内大塚古墳が雄略天皇陵であり、古墳規模が全国第5位であるにもかかわらず、未完成であるこが理解できる。「縮900年表」では、第21代の雄略天皇は在位23年で没年は486年である。私の遺構・遺物の「箸墓260編年」では古墳後期の始まる横穴式石室の登場は470年からであり、河内大塚古墳にある「ごぼ石」が横穴式石室の天井石があったとしても雄略天皇陵と言える。


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68-5.河内大塚古墳は安閑天皇陵か? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z350.河内大塚古墳実測図.png河内大塚古墳を古墳時代後期6世紀中葉以降に比定する見方が定着する中で、堺市文化財課の十河良和氏は未完成の古墳であると主張した。河内大塚古墳は周濠の深さは極めて浅く堆積土も少ない。前方部の削平にともなう周濠への盛り土の移動がないことから、前方部が異常に低いのは本来の形状であり(Z350)、前方部の盛り土が行われていなかったと結論付けている。そして、安閑天皇が河内大塚古墳を寿陵として築造していたが、皇位継承問題で殺害され(辛亥の変)、未完の河内大塚古墳には埋葬は叶わず、『書紀』記載の「安閑天皇・春日山田皇女、河内古市高屋陵合葬」の如く、皇后陵への緊急的な埋葬が行われたと推測している。この説は平成23年7月13日の読売新聞に取り上げられ話題を呼んだ。

 

十河氏は河内大塚古墳が未完成で埴輪が無いことについて、その証拠を河内大塚古墳の南南西5.5kmにある埴輪窯・日置荘西町遺跡に求めている。日置荘西町遺跡からは埴輪窯7基と須恵器窯5基が確認されており、埴輪窯の稼動時期は古墳後期(6世紀代)である。埴輪窯の稼動が始まったTK10・MT85頃の円筒埴輪は窯焼成・外面タテハケで埴輪Ⅴ式であるにもかかわらず、4世紀代(野焼きの埴輪Ⅱ・Ⅲ式)に造られた器高が1.2〜1.4mの大型品で、段によってスカシ穴が2個以上、鰭付きのものがある特長があり、一般的なⅤ式の埴輪とは違った系譜で日置荘窯系と呼ばれている。

 

日置荘窯系の円筒埴輪は、古市・百舌鳥古墳群内の古墳にその樹立が見つかっていない。一方、埴輪窯周辺では埴輪が他の用途に長期間に渡って転用されている。これは河内大塚古墳に供給されるはずの埴輪が、供給をストップされたためであるとして、河内大塚古墳の築造をMT85型式期、6世紀中頃と推測し、安閑天皇崩御の535年(乙卯)と結び付けている。


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68-4.古墳規模全国第5位の河内大塚古墳の被葬者は誰か? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

記紀に書かれた文字数のベスト5を見ると、雄略天皇陵の墳丘長が抜けている。表から推察するに雄略天皇陵は墳丘長300m以上の規模である前方後円墳であることが分かる。しかし、現在雄略天皇陵に治定されているのは直径76mの円墳である高鷲丸山古墳(羽曳野市)である。宮内庁は明治18年に丸山古墳の東南東約100mの位置にある方墳の平塚古墳と合わせて前方後円形に修復され、両者を合わせて雄略天皇陵と治定している。『日本書紀』『古事記』共に、雄略天皇の御陵は河内の丹比高鷲にあると記している。雄略天皇陵に治定されている高鷲丸山古墳は、現在の羽曳野市高鷲地区の中心から北0.8kmのところにある。

 

羽曳野市高鷲地区の中心から北西1.3kmに河内大塚古墳がある。河内大塚古墳は墳丘長335m、後円部径185m、前方部幅230m、造出は無く、円筒埴輪もない。現在宮内庁が陵墓参考地として管理している。河内大塚古墳は所在地が記紀の記載通りで、墳丘長335mは全国第5位の規模で、Z347-3のように文字数第2位の雄略天皇のところにピッタリ当てはまる前方後円墳である。河内大塚古墳の前方後円墳の形状はきれいに保っているものの、前方部の高まりはなく平坦地となっている。中世には城塞が築かれていたが、織田信長の河内攻めで城は破却され、その後、前方部には大塚村の集落が形成されていた。河内大塚古墳が陵墓参考地となったのは大正14年で、大塚村の集落は順次移転していった。江戸時代の陵墓の治定時には、河内大塚古墳は陵墓の対象とならなかったのであろう。

 

Z349.河内大塚古墳.png

伝承では、河内大塚古墳は平安時代の皇族・阿保親王の墓とされているが、これは論外である。また、江戸時代には推古11年(603年)に亡くなった聖徳太子の兄である来目皇子の墓との説も出ている。603年と言えば、前方後円墳が築かれなくも無いが、来目皇子の墓は埴生山岡上とされており、河内大塚古墳は平地にあると否定されている。明治になって吉田東伍が河内大塚古墳は雄略陵であるとの見解を示し、戦後においても1970年頃に森浩一氏をはじめ、多くの学者が同調している。

 

1976年に稲荷山鉄剣の金象嵌の文字が発見され、雄略天皇の実在が確信されると、河内大塚古墳は雄略陵であることに確定するのかと思うと、風向きは変わってしまう。『宋書』倭国伝に登場する、478年に朝献した倭国王・武が雄略天皇であるとするならば、雄略陵の築造は5世紀末の中期古墳になると考えられた。しかし、河内大塚古墳の後円部の南部斜面に露出している巨岩の「ごぼ石」が横穴式石室の天井石と考えられ、そして墳丘に埴輪が全くないことから、見瀬丸山古墳のように埴輪が樹立されなくなった段階の後期後半の古墳とみなし、6世紀中頃から後半にあたると考えられるようになり、河内大塚古墳の雄略陵説は葬りさられた。


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68-3.天皇陵の規模は在位年数と関係している [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

天皇陵古墳の一覧表を見ていて、在位年数が長いほど古墳規模が大きく、在位年数が短いほど古墳規模が小さい傾向があるとが分かった。しかし、ここで言う在位年数は、書紀に記載された年数ではなく、書紀の編年を900年縮めた「縮900年表」による在位年数である。「縮900年表」が認知されていない現在、いくら声高に天皇の在位年数と墳丘長は関連していると騒いでも、それは信用されないであろう。そうかと言って百歳以上の天皇が何人も存在する『書紀』の編年を採用するわけにもいかない。そこで思いついたのが、記紀に書かれた各天皇の記事の漢字文字数と墳丘長の関係を比較することだ。文字数が多いということは、在位年数が長いことに通じるからだ。

 Z346.文字数と墳丘長.png

Z346に記紀に書かれている文字数を示す。『日本書紀』には、編纂時に百済記等から挿入された記事があり、漢字の全てがその天皇の記事でないという欠点がある。『古事記』には仁賢天皇から欽明天皇の間は、宮・御子・御陵について書かれ、在位中の出来事は書かれていない欠点があった。そこで、『日本書紀』と『古事記』の文字数の合計と墳丘長とを比較した。ただし、『古事記』の仁賢天皇から欽明天皇の文字数は5倍して加算するという補正を行っている。また、天皇陵の墳丘長で、仲哀天皇陵は津堂城山古墳、継体天皇陵は今城塚古墳の墳丘長としている。

 

Z347-1,文字数と墳丘長.pngZ347-1に文字数ベスト5とワースト5について、文字数と在位年数・墳丘長を比較した。文字数と在位年数は大きく関係していいることが分かる。文字数と墳丘長の関係で最も異常な値を示したのが、文字数でトップの欽明天皇陵の平田梅山古墳である。墳丘長140mはワースト5に相当する値である。欽明天皇陵を見瀬丸山古墳と考える研究者は多い。欽明天皇の陵墓は『書紀』に檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄(しのびごと)の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。平成3年、見瀬丸山古墳の石室の内部の写真が新聞に公表され、石室には二つの石棺が安置されていることが確認された。なお、採集された須恵器片はいずれもTK43型式のものであった。見瀬丸山古墳は墳長が全国第6位の310mで、石室規模・二つの石棺や須恵器TK43の年代から欽明天皇の陵墓と考えられる。

 

見瀬丸山古墳を欽明天皇陵とすると、欽明天皇陵と治定されていた平田梅山古墳は宣化天皇陵と比定できる。見瀬丸山古墳と平田梅山古墳の間は0.8kmである。平田梅山古墳は墳丘長が140mでワースト5の範囲であり、出土した須恵器は見瀬丸山古墳と同じTK43で時代も合っている。江戸時代の治定において、見瀬丸山古墳は荒廃が進み前方後円墳とは認識されず、後円部のみを円墳と見られ、石室内に二つの石棺があったことから天武・持統陵(合葬)と間違って比定されたため、欽明陵も宣化陵も間違うはめになったのであろう。なお、天武・持統陵は確かな証拠が出たため、野口王墓古墳(八角墳)に明治13年に治定変更されている。

 

Z347-2,文字数と墳丘長.png欽明陵を見瀬丸山古墳、宣化陵を平田梅山古墳としてZ347-2に書き改めた。明らかに在位年数と墳丘長の間に関係があることが分かる。各天皇の在位年数と墳丘長の関係を見ていて、気になったのが仁賢陵である。仁賢陵は墳丘長122mのボケ山古墳に治定されており、埴輪Ⅴ式で考古学的な齟齬はない。仁賢天皇の在位年数は11年で、墳丘長122mは規模が小さいように感じられる。仁賢陵は仲哀陵に治定されていた岡ミサンザイ古墳(墳丘242m、埴輪Ⅴ式)に比定する。ボケ山古墳と岡ミサンザイ古墳の間は1kmである。江戸時代の天皇陵の治定において、津堂城山古墳が荒廃していたために、仲哀陵に岡ミサンザイ古墳が間違って治定された。そのため仁賢陵も間違った治定にならざるを得なかったのであろう。これまでに見直した天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。見直した後の天皇陵の一覧はZ348である。

Z348.天皇陵古墳見直し1.png

 


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