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68-8.天皇陵は皇太子就任時から造られ始めた寿陵 [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

元奈良大学学長であられた水野正好氏は『考古学と自然科学 第31・32号』(日本文化財科学会、1995年)「古墳時代研究と自然科学」のなかで、百舌鳥耳原に築かれた仁徳・履中・反正について言及し、「仁徳天皇の在位期間は87年、陵墓開始から崩御までの時間は20年という歳月があります。ところが履中天皇は在位6年、70歳で崩じたと記されています。履中天皇陵と考えられる市谷古墳(百舌鳥陵山古墳)はその規模3位、仁徳、応神天皇陵に次ぐ規模を持っています。6年間での造営ではむつかしい規模雄大さを誇っています。履中天皇は仁徳天皇下の皇太子、その太子の期間は56年間、崩御70歳という状況を考えると皇太子の時代の築造であったのではないかと思えます。反正天皇は履中天皇の皇太子期間5年、在位5年という短い天皇です。それだけに雄大な古墳の造営はむつかしいと思います。田出井山古墳は小規模、故に天皇陵に非ずという説はむしろおかしく在位期間の短さが結果していると私は考えるのです。」と述べている。

 

水野氏は天皇の在位期間を書紀の編年通りに考え、そして履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳として論を組み立てている。私は、そのことには賛同しないが、陵の造営が皇太子時代から始まっていたとの見解からヒントを得て、「天皇陵は皇太子就任時から造られ始めた寿陵」と考えるようになった。河内大塚古墳がその前方部の土盛がなく周濠も浅いことから、未完成の雄略天皇陵と比定した。この事を論拠に私は、天皇陵は寿陵で即位の年から後円部の造営を行い、天皇が崩じると後円部の規模に応じた墳形が決められ、前方部が造営されると考えていた。しかし、水野氏の見解を参考にして「天皇陵は皇太子になった年から後円部の造営を行う寿陵である。皇后陵は皇后になった年から後円部の造営が始まる。」と考えるようになった。

 

「縮900年表」によれば、履中天皇が皇太子になったのは仁徳31年(400年)である。そして、天皇に即位したのが履中元年(432年)で、崩御が履中6年(437年)である。履中天皇陵は皇太子在位32年と天皇在位6年を合わせた38年に相当する規模になると考えられる。一方、反正天皇は皇太子になったのが履中2年(433年)で、即位が反正元年(438年)、崩御が反正5年(442年)である。反正天皇陵は皇太子在位5年と天皇在位5年を合わせた10年に相当する規模になる。これらより、履中天皇が墳丘290mのニサンザイ古墳であり、反正天皇陵が墳丘148mの田出井山古墳に比定することが出来る。

 

Z353.皇太子就任陵造営.pngZ353に天皇と皇后の天皇陵築造期間と墳丘長の関係を示す。天皇の陵築造期間は皇太子に就いた年から天皇の崩御まで、皇后の期間は皇后に就いた年から崩じた年までとしている。履中天皇陵(ニサンザイ古墳)、は反正天皇陵(田出井山古墳)である。Z351と比較すると、天皇陵は皇太子に就いた年から陵の造営が始まると考える方が、在位期間と墳丘長の関係のバラツキが少なくなっているのが分かる。大仙古墳が仁徳天皇陵、ニサンザイ古墳が履中天皇、反正天皇陵が田出井山古墳に比定出来る。

 

Z354.B種ヨコハケの変遷.png

古墳の築造年代を決定する指標は、一に埴輪型式、二に須恵器の型式である。近年、埴輪型式のⅢ式期とⅣ式期に現れる外面2次調整のB種ヨコハケをBb・Bc・Bdに細分し(Z354)、その出現頻度により年代を決めることが一瀬和夫氏により提案(1980年)され、百舌鳥・古市古墳群の古墳の築造年代の決定に利用されている。一瀬氏は、『百舌鳥最後の大王墓を探る』(堺市文化財課、2019)の中で、「私は土師ニサンザイ古墳の築造時期から言うと、被葬者は珍で反正天皇との伝承がある人物像である確立が95%超えていると思っています。」とある。考古学的に、田出井山古墳よりもニサンザイ古墳が新しいとしており、ニサンザイ古墳が履中天皇、反正天皇陵が田出井山古墳の比定を否定するばかりか、「天皇陵は皇太子になった年から後円部の造営を行う寿陵である。」との考えに大きな壁として立ちはだかっている。


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