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4-3.金印をもらった奴国 [4.卑弥呼は何故共立されたか]

私は魏志倭人伝に記載された方角・里数通りに辿ることにより、邪馬台国を研究する人の誰もが考えもしなかった、伊都国が吉野ヶ里遺跡、奴国の都が八女市であると比定して、邪馬台国が日向にあつたとの結論を導き出した。邪馬台国論争の近畿説・九州説、どちらの説も、伊都国が現在の福岡県の糸島市付近、奴国が福岡市・春日市付近としている。糸島市・福岡市・春日市からは、定説で伊都国・奴国といわれる遺跡が数多く発掘されている。これらの遺跡の歴史的意味合いを探り、私の比定の整合性を検証する。

奴国は福岡平野の西の端、飯盛山の裾野に広がる早良平野で興った。吉武高木遺跡の木棺墓から、細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈、多鈕細文鏡、そして硬玉製勾玉・碧玉製管玉が出土している。青銅武器や甕棺の形式から最古の王墓と考えられている。その他の木棺墓や甕棺墓からも、多数の銅剣や勾玉・管玉が出土している。これらの遺跡は弥生中期の初め、紀元前2世紀の初め頃と考えられている。吉武高木遺跡の鏡・玉・剣の三点セットは、天皇家が鏡・玉・剣を神宝としていることと一致し、奴国が天皇家の発祥と大きく関わりを持っていると考えさせられる。 

この奴国は福岡平野の南部の春日丘陵で、青銅器の生産を大規模に行い発展して行った。この丘陵には、須玖岡本遺跡をはじめとする弥生遺跡が多くみられる。須玖岡本遺跡群は青銅器の工房などがある集落遺跡と、多数の墓で構成されている。須玖岡本遺跡の巨大支石墓から、前漢鏡約30面、青銅製の刀剣八本、ガラスや骨で作られた勾玉や管玉などの遺物が出土している。この巨大支石墓は、奴国の王の墓と考えられている。 

糸島平野の三雲あたりは三雲遺跡群と呼ばれ、広い地区に多くの集落や墓地の遺跡が散在している。この三雲遺跡からは、二基の大型甕棺墓が発見され、それらから合計57面の前漢鏡が出土している。これは弥生・古墳時代を通じて、一遺跡から出土した舶載の鏡としては最高の数である。これらの地区は、糸島半島の根元にある今山から採れる硬くて緻密な玄武岩を使って作った、伐採用の大型蛤刃石斧を北九州一円に売り、財を為したのであろう。 

福岡平野の東の三郡山地を越えた、遠賀川上流の嘉穂盆地にある立岩遺跡では、10号甕棺からは前漢鏡6面が、その他4基の甕棺からそれぞれ1面の前漢鏡、合計10面の前漢鏡が完全な形で出土している。これらの甕棺からは銅剣や鉄剣・鉄矛も出土しており、鉄剣・鉄矛には絹が付着していたそうだ。また、14個のゴホウラ貝の腕輪をした人骨も出土している。これらの地域は立岩の西北6キロにある笠置山で採れる、輝緑凝灰岩で作った石包丁を北九州一円に売り、財をなしたと想像する。 

倭人が初めて中国に朝献した年は、漢書地理史に「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り、献じ見ゆ」と記載されていることから知る事が出来る。「楽浪」は前漢の時代、紀元前108年に定められ、前漢が滅びたのは西暦8年。倭人が朝献したのは、この間の事であった。唐津湾に面する糸島半島の御床からは、前漢武帝(在位紀元前141~前87年)の開鋳といわれる半両銭が発見されている。これらからすると、倭人が初めて中国に朝献した年は、紀元前108年から前87年の頃であったのかもしれない。いずれにしても、紀元前からこの地が中国と交流があった事を示している。須玖岡本遺跡・三雲遺跡・立岩遺跡からは前漢鏡の鏡が出土しており、この時期のものと考える。前漢の時代、奴國の領域は早良平野・福岡平野・春日丘陵の範囲であり、糸島平野と嘉穂盆地には、それぞれ別の国であったと思われる。 

後漢書に「建武中元2年(57年)倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武賜に印綬を以てす」と記載されている。江戸時代、北九州の博多湾の出口にある志賀島で、農夫により「漢委奴国王」の五文字を刻んだ金印が発見された。この金印こそ、光武帝より授かった印綬であった。この時金印を授かったのは、倭国王ではなく奴国王であったと言うのが定説だ。金印は王墓から出土したのでなく、志賀島の海岸沿いにある小さな石組から出土しているのが謎である。この時期の王墓と言えば、糸島平野の三雲遺跡に隣接する井原鑓溝遺跡から方格規矩四神鏡21面や刀剣などがおさめられた甕棺が出土している。これら方格規矩四神鏡は新または後漢の鏡であるされている。春日丘陵からは、この時期の王墓クラスの墓は発見されていない。

ただ、光武帝が王莽の新を破って後漢を建国したのが25年で、光武帝の先祖は前漢の景帝の皇子である。光武帝の時代の鏡が、王莽の新の時代に流行った方格規矩四神鏡であったとは考え難く、前漢鏡タイプの鏡を造ったと考える方が素直である。そうなると、金印を授かった奴国王の墓は、前漢鏡30面が出土した須久岡本遺跡の王墓となってくる。金印を授かった奴国王の墓の比定は後章に譲る。

後漢書に「安帝永初元年倭国王帥升朝貢。生口百六十人を献ず」とある。後漢中頃の107年に、倭国王が朝貢していた。三雲の西側の平原遺跡からは、墓の四方に溝をめぐらした方形周溝墓が発見されている。その大きさは、長さ18メートル、幅14メートルと大きなものであった。この遺跡からは42面の舶載の鏡、直径46センチの超大型国産鏡(舶載鏡の説あり)、メノウの管玉、琥珀製の丸玉など副葬品が出土している。この舶載鏡は方格規矩四神鏡で、井原鑓溝遺跡の方格規矩四神鏡よりは新しいタイプのものと言われている。平原遺跡の王墓は倭国王帥升の墓と考えたいが、光武帝の時代の鏡が前漢鏡タイプであったとすれば、鏡による時代比定がひとつズレ、倭国王帥升の王墓は井原鑓溝遺跡ということになる。倭国王帥升の王墓の否定は後章に譲る。

後漢鏡を出土する王墓が糸島平野に存在し、春日丘陵には存在しない。糸島地区の王が奴国を乗っ取ったのかも知れない。奴国の王は亡命に際して、金印を志賀島に埋めたと想像することも出来る。後漢の時代の奴国の領域は、糸島平野・福岡平野・春日丘陵・飯田盆地などを支配する国になり、他の諸国を束ね奴国連合国の倭国王として君臨していたに違いない。


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