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74-20.「倭国600年の歴史を紐解く」 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

2011年6月から13年間続けて来たブログ「日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権」は前回で終了させていただきます。愛読ありがとうございました。本日7月7日からは、新たなブログ「倭国600年の歴史を紐解く」、「https://wakoku-himotoku.blog.ss-blog.jp/」を立ち上げました。引き続きご愛顧いただければ幸いです。

 

「倭国600年の歴史を紐解く」

プロローグ

倭国600年の歴史(奴国・邪馬台国・大和国・大和王権)

古代我が国は中国から倭国と呼ばれていた。倭人の国は倭国ではなく、倭国の誕生は倭国王が登場してからのことである。後漢書東夷伝には、「安帝の永初元年(107年)倭国王帥升ら、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。」とある。これにより、倭国は107年の少し前、弥生時代後期中葉頃に誕生したことが分かる。倭国は時代と共に形態や領域が変遷している。大和国が全国を支配し大和王権となるまでは、倭国は連合国であった。連合の盟主国は、奴国・邪馬台国・大和国と変遷している。奴国は福岡平野にあり、大和国は奈良盆地にあった。邪馬台国が何処にあったかは、いまだ決着していない。

 

「日本」という国号は、中国の史書『史記』の注釈書である『史記正義』(736年)の中に、「則天武后が倭を改めて日本とした」とする記述があることから、粟田真人が飛鳥時代の終りに遣唐使執節使として派遣された702年の遣唐使から「日本」の国号が使用されたとされている。粟田真人は国史の編纂にも携わり、題名に「日本」を冠し『日本書紀』としたと考える。ただ、粟田真人は『日本書紀』が完成し舎人親王により撰上された前年の養老3年(719年)2月に亡くっている。倭国の歴史は、倭国王の登場した107年頃から、「日本」の国号を使用した702年頃まで、弥生時代後期中葉から飛鳥時代の終りまでの約600年となる。


13年間続けてきたブログ「日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権」では、『日本書紀』を900年縮めて編年し、歴史民俗博物館の弥生日用土器の編年を基にして甕棺型式の編年を行い、9千基の古墳から遺構・遺物を編年して、歴史学と考古学の年代を一致させ、倭国の歴史を解明してきた。このブログを整理し、倭国の歴史を一本の紐として解き明かすために、新たにこのブログ「倭国600年の歴史を紐解く」を立ち上げた。

 

毎週金曜日に掲載し、1年半は続きます。連読頂ければ幸いです。


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74-19.天皇陵とその年代を探求する [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]


「空白の世紀」を解き明かすには、『日本書紀』『古事記』の記述から史実を導き出さねばならない。そのためには、各天皇の時代を明確にしなければならない。天皇陵の所在地は『日本書紀』『古事記』に記載されており、その所在地は両者がほとんど一致している。これらからすると、帝紀・旧辞が作られたであろう欽明朝に、伝承に基づいて陵墓の治定がなされたと考えられる。記紀記載の天皇陵の所在地は大まかにみると、大和・柳本古墳群から佐紀古墳群へ、そして古市・百舌鳥古墳群と移行しているが、それらは考古学の古墳群の変遷と一致しており、記紀が伝承に基づいて陵墓の地を記載している証拠でもある。現在の天皇陵の治定は、その多くが江戸時代になされたもので、現在の考古学からすると、その治定に問題のある天皇陵もある。天皇の崩御の年は「新縮900年表」を採用し、古墳年代は「箸墓250編年」を採用して、天皇崩御年と古墳年代が大きくかけ離れているものは、記紀の記述と大きくかけ離れない地域で天皇陵比定の古墳を見直した。

 

Z502.天皇の没年と陵墓年代.png

「新縮900年表」による天皇と皇后の没年をと御陵の古墳年代(中央値)の関係を上図に示した。赤線はPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)である。黒線は天皇と皇后の没年と古墳年代が全く同じであった時の線である。なお、右表の治定の○×は、宮内庁の御陵の治定と古墳が一致しているかどうかを示している。図では、黒線と赤線がほぼ一致している。これは、御陵が生前から造られた寿陵であることを示すばかりか、『書紀』の編年を900年短縮して作成した「新縮900年表」と、9092基の古墳の資料から152種の遺構・遺物の編年を作成した「箸墓260編年2003」が整合性が取れていることを示している。『書紀』は史実を基に書かれたものであり、「新縮900年表」は、史実の年代を示している証拠ではなかろうか。これ以降、各天皇の御陵と古墳の治定・比定、古墳年代の根拠について、神武天皇から欽明天皇までの全ての天皇について記載した。

 

神武天皇陵は畝傍山東北陵とされているが、『書紀』の天武紀にある壬申の乱(672年)の記述に、吹負軍が金綱井に集結したとき、高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したとある。金綱井の所在は未詳であるが、私は伊勢街道と上道が出会った桜井市金屋付近と考えている。金屋の南2.Kmの磐余の地に前方後円墳のメスリ山古墳(墳長240m)がある。このメスリ山古墳が神武天皇陵と考えるが、神武天皇は壱与(崇神天皇)に譲位したので、崩御年は不明で陵墓年代比定に採用していない。なお、メスリ山古墳の年代は円筒埴輪式(280~340年)の年代である。

 

崇神天皇陵は山辺道上陵とあり、天理市柳本町の行燈山古墳(墳長242m)に治定されているが、「74-11.吉備に何故、前期前方後円墳が多いのか」で述べたように、崇神天皇は壱与で御間城姫で吉備王の娘であることから、崇神天皇の御陵は天理市の山辺道沿いにある吉備の特殊器台が出土した西殿塚古墳と考えている。西殿塚古墳(墳長234m)の年代は、埴輪I式(260~280年)と都月式埴輪(250~270年)から260~270年で、崇神天皇の崩御は273年である。宮内庁が崇神天皇陵と比定している行燈山古墳は御間城入彦の墓であろう。

 

垂仁天皇陵は菅原伏見陵とあり、奈良市の西南端にある宝来山古墳(墳長234m)に治定されている。宝来山古墳の年代は盾形埴輪(260~600年)と後円部が高い墳形(250~380年)より、260~380年と見られるが年代幅が100年以上あり、陵墓年代比定に採用していない。垂仁天皇の崩御は303年である。『書紀』垂仁32年(291年)の記事には、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が亡くなられたとき、野見宿禰が出雲国の土部百人をよんで、埴土で人や馬や色々の物の形を造って、日葉酢媛命の墓に立て殉死者の替りとした。この土物を名付けて埴輪といったとある。

 

宮内庁は奈良市の佐紀古墳群にある佐紀陵山古墳(墳長234m)を日葉酢媛命の陵に治定している。佐紀陵山古墳の年代は円筒埴輪式から280~340年と言える。『書紀』は、垂仁32年(291年)に日葉酢媛命の墓に立てられた土物を埴輪が起源の起源としているが、円筒埴輪(式)は260年から造られ、埴輪の起源とされる吉備の特殊器台は250年頃から造られている。また、佐紀陵山古墳から出土した形象埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪・家形埴輪)も260年から造られている。『書紀』垂仁32年に記載された日葉酢媛命の墓に立てられた埴輪が起源というのは考古学の観点から違っている。一方、人形や馬形の埴輪の登場は古墳中期の始まりの380年以降であり、埴輪の起源に人や馬の形の形がするものを造

ったというのも考古学の観点から違っている。

 

佐紀陵山古墳は正年間に大掛かりな盗掘事件が発生し復旧工事が行われため、出土遺物の調査・記録が残っている。佐紀陵山古墳の後円部墳頂にある方形壇を取り囲んでひれ付円筒埴輪立てられいる。ひれ付円筒埴輪は人垣を連想させ、『書紀』が記す、殉死者の替りに埴輪を立てたとの伝承が生まれたと想像できる。「新縮900年表」では、日葉酢媛命が亡くなったのは291年で、私の遺構・遺物の編年ではひれ付円筒埴輪の登場は円筒埴輪式と同じ280年である。佐紀陵山古墳がひれ付円筒埴輪の始まりとして、その登場を290年としても、たぶん齟齬をきたすことはないだろう。

 

景行天皇陵は山辺道上陵で、天理市の山辺道にある渋谷向山古墳(墳長300m)に治定されている。渋谷向山古墳の年代は円筒埴輪式の300〜360年で、景行天皇の崩御は334年である。成務天皇陵は狭城盾列陵とあり、奈良市の佐紀古墳群にある佐紀石塚山古墳(墳長218m)に治定されている。佐紀石塚山古墳の年代は、後円部が高い墳形から250~380年と見られるが年代幅が100年以上あり、陵墓年代比定に採用していない。

 

仲哀天皇陵は河内国の長野陵とあり、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(墳長242m)に治定されている。古墳からは埴輪Ⅴ式が出土しており、埴輪Ⅳ式が出土した応神天皇陵・仁徳天皇陵よりも新しい古墳といえ齟齬がある。古市古墳群の最古の大型前方後円墳である津堂城山古墳(墳長208m)が相応しいという見解が多い。古墳年代は埴輪Ⅱ式(280~340年)と三角板革綴短甲(350~470年)から340~350年と考えられる。仲哀天皇の崩御は346年に筑紫の香椎宮でなくなり、神功皇后が天皇を長野陵に葬ったのは348年で、ピッタリ合っている。神功皇后陵は狭城盾列陵とあり、奈良市の佐紀古墳群の西端の五神神古墳(墳長276m)に治定されている。古墳の年代はひれ付円筒埴輪から280~420年で年代幅が100年以上あり、また、『書紀』の記す神功皇后崩御の年は、摂政を辞めた年の可能性もあり陵墓年代比定に採用していない。

 

応神天皇陵について『書紀』は記載が無い。『古事記』に河内の恵賀の裳伏崗にあるとあり、羽曳野市の誉田御廟山古墳(墳長415m)に治定されている。古墳の年代は埴輪IV式(380~470年)と草摺形埴輪(280~460年)から380~460年とみられるが、外堤外側の溝からTK73型式の須恵器が見つかっていることから、TK73型式(390〜410年)の年代とする。応神天皇崩御の年は390年である。

 

仁徳天皇陵は百舌鳥野陵とあり、堺市の大仙古墳(墳長476m)に治定されている。平成10年には仁徳陵古墳の東側造出から須恵器の大甕(ON46型式)が採取され、年代決定の決め手となり430年〜450年と判定している。仁徳天皇の崩御は430年である。『書紀』仁徳37年(410年)に、皇后磐之媛命を奈良山に葬ったとあり、佐紀古墳群のヒシアゲ古墳(219m)に治定している。古墳年代は埴輪Ⅳ式(380~470年)と草摺形埴輪(280~460年)から380〜460年となる。

 

履中天皇陵は百舌鳥耳原陵とあり、百舌鳥陵山古墳(墳長365m)に治定されている。百舌鳥陵山古墳から円筒埴輪Ⅲ式(340~380年)が出土した。仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳の埴輪型式がⅣ式(380~470年)であることから、履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳に治定することが考古学的に否定された。私は、履中天皇陵を百舌鳥古墳群のニサンザイ古墳(墳長288m)に比定する。反正天皇陵は耳原陵とあり、百舌鳥古墳群東端の田出井山古墳に治定されている。允恭天皇陵は河内の長野原陵とあり、藤井寺市の市野山古墳(墳長230m)に治定されている。ニサンザイ古墳・田出井山古墳・市野山古墳からはTK208が出土しており、古墳年代は440~460年である。崩御の年は、履中天皇は437年、反正天皇は442年、允恭天皇は460年である。安康天皇陵は菅原伏見陵とされ、奈良市宝来町の方形壇が治定されているが、資料がなく陵墓年代比定に採用していない。

 

雄略天皇陵は河内の丹比高鷲とあり、宮内庁は明治18年に羽曳野市高鷲に円墳の高鷲丸山古墳と方墳の平塚古墳と合わせて前方後円形に修復され雄略天皇陵と治定している。高鷲地区には全国第5位の規模の河内大塚古墳(335m)があり、宮内庁が陵墓参考地として管理している。雄略天皇の治世と、陵墓の所在地、古墳規模から河内大塚古墳が雄略陵と考えることが出来る。河内大塚古墳は後円部の盛土がほぼ出来上がり前方後円墳の形も整っているにも関わらず、前方部の盛り土がなく周濠も浅いことから、未完成の前方後円墳であるという説が出てきた。

 

未完成の河内大塚古墳が雄略天皇の陵墓として造られたことを証明する記事が『書紀』『古事記』に記載されている。『書紀』によると、雄略天皇の後に即位した清寧天皇は、雄略天皇に謀殺された従兄弟の市辺押磐皇子の子供の億計と弘計を発見し宮中に引取った。清寧5年、清寧天皇が亡くなると、弟の弘計は兄の皇太子であった億計(後の仁賢天皇)から天皇の座を譲られ顕宗天皇に即位した。顕宗2年、顕宗天皇は億計皇太子に「わが父王は罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられた。仕返しに雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい。」と言われた。皇太子は「私たち兄弟は清寧天皇から厚い寵愛と深い恩を受けた。雄略天皇は清寧天皇の父である。陵を壊したりすれば、祖霊に仕えることも出来ないし、天下に臨み人民を子とすることも出来ない」と諫めた。そこで、民を使役することをやめられたとある。

 

私は河内大塚古墳が486年に崩御した雄略天皇陵と考える。しかし、古墳の後円部にある「ごぼ石」が横穴式石室の天井石と考えられ、埴輪が無いことからから見瀬丸山古墳と同じ古墳後期後半の年代と見解も出ている。私の編年では、横穴式石室の登場は470年からであり時期的には合っている。未完ならば円筒埴輪が無いことと整合性がとれる。ただ、その他の考古学的資料は乏しく、古墳の年代決定には至らず、陵墓年代比定に採用していない。

 

清寧天皇陵は河内の坂戸原陵と記載され、羽曳野市の白髪山古墳に治定されている。仁賢天皇は埴生坂本陵と記載され、藤井寺市のボケ山古墳に治定されている。両者の年代の決めては埴輪V式(470~600年)と造出(280~550年)で470~550年であり、崩御は清寧天皇は491年で、仁賢天皇が505年である。なお、武烈天皇と顕宗天皇の陵墓は資料に乏しく陵墓年代比定に採用していない。

 

継体天皇陵は藍野陵とされ、茨木市にある大田茶臼山古墳(墳長226m)に治定されているが、須恵器のON46(430〜450年)が出土している。継体天皇の崩御は531年であり、大田茶臼山古墳の年代とかけ離れており、多くの研究者により高槻市にある今城塚古墳(墳長186m)であるとされている。今城塚古墳の年代の決め手は須恵器のTK10から520〜550年である。安閑天皇は古市高屋丘陵とあり、高屋築山古墳に治定されている。古墳年代の決め手は埴輪Ⅴ式(470~600年)とテルテル坊主形墳形(350~580年)で470~580年であり、年代幅100年以上で陵墓年代比定に採用していない。

 

宣化天皇は『書紀』に身狭桃花鳥坂上陵と記され、「身狭」とは現在の奈良県橿原市の畝傍山の南および南東一帯をさす古代地名であり、欽明天皇の陵墓とされている平田梅山古墳(墳長140m)に比定する。欽明天皇陵は檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。欽明天皇陵については、見瀬丸山古墳(墳長310m)と考える研究者が多い。平田梅山古墳と見瀬丸山古墳からは須恵器TK43が出土しており、古墳年代は550〜579年である。宣化天皇崩御は539年(在位4年)、欽明天皇崩御は571年(在位32年)である。

 

Z502.天皇の没年と陵墓年代.png

再度、天皇・皇后の没年(新縮900年表)と御陵の古墳年代(箸墓250編年2003)を掲げた。両者の関係は45度の直線に近く、『日本書紀』の年代と考古学(古墳の遺構・遺物)の年代が一致していることを示している。本節末尾に掲載した「新縮900年表」と『日本書紀』の対照表は、『日本書紀』の全ての記事の年代を示している。この対象表に従って『日本書紀』の記事を読めば、「記紀」で「空白の世紀」の150年を解明できるばかりか、我が国の古墳時代の歴史を明らかにすることが出来る。

Z502-1.新縮900年表と日本書紀1.png

 

新縮900年表と日本書紀2.png
Z502-3.新縮900年表と日本書紀3.png

 


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74-18.武内宿禰は統一国家誕生の立役者 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

武内宿禰は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕え、『書紀』の編年の通り計算すると年齢が265歳余りとなり、伝説上の人物とされている。一方、『新撰姓氏録』は平安時代に編纂された古代氏族名鑑であり、日本古代史の研究に欠かせない史料であるが、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65氏族が掲載されており、実在の可能性も伺える。

 

『書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれており、武内宿禰が仁徳朝に存命していた表現となっている。

 

この歌謡は万葉仮名で書かれており、歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞で、「阿曾」が「朝臣」である。「朝臣」を「阿曾」と表記する例は万葉集に3首ある。「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、歌謡は伝承そのものであり、『書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は史実でなく、長寿のたとえに武内宿禰を引き合いに出したのであり、413年に武内宿禰が存命していたことにならない。

 

 神功51年に、百済の肖古王が久氐を遣わし朝貢した。皇太后は太子と武宿禰に「わが親交する百済国は、珍しいものなど時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられたとある。肖古王の記事は干支2廻り遡らせて挿入しているから、久氐を遣わしたのは371年となる。百済の肖古王の治世は346~375年であり、「新縮900年表」では応神天皇の治世は354~390年である。百済の肖古王が応神天皇に久氐を遣わし371年に朝貢したことは史実であろう。石上神宮の七枝刀の銘文がそれを証明している。神功皇后が存命であったかどうか疑わしい面もあるが、この時の応神天皇の年齢が25歳頃であることからすれば、武宿禰は大臣として371年頃に生存していたと考えられる。

 

武内宿禰の年齢を「縮900年表」に基づき計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、武内宿禰は371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。

 

Z501.室宮山古墳.png允恭5年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳と考える。室宮山古墳の古墳年代は三角板革綴短甲(350~470年)と埴輪III式(340~380年)から350~380年である。

武内宿禰は371〜380年に葬られたと思われ、最高に長生きされても79歳である。武内宿禰は実在し、空白の150年の半分を生きぬき、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え、大臣として大和王権を支え、統一国家を作り上げた立役者であったと考える。明治22年(1889)5月1日から昭和33年(1958)10月1日まで、日本銀行発行の壱圓(一円)札に武内宿禰の肖像が使われていた。歴史上の人物として、武内宿禰の肖像は一番長く使われた紙幣だそうだ。武内宿禰を伝説上の人物としてではなく、歴史上の人物として再評価される日がいつか来ると思っている。


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74-17.富雄丸山古墳の被葬者は田道間守命 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

 

Z485-1.田道間守墓.png『書紀』垂仁90年には、天皇は田道間守に命じて常世国に遣わして非時の香果を求められた。いま橘というのはこれである。垂仁99年天皇は纏向宮で崩御になり、菅原の伏見陵に葬った。翌年、田道間守が帰国し、垂仁天皇が崩御されているのを知り、非時の香果を持ち帰るののに10年経ってしまったと、天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」とある。垂仁天皇陵(宝来山古墳)の周濠内にある小さな小島が田道間守の墓であるとの言い伝えがあり、濠の傍には「田道間守命御塚拝所」の石碑が立っている。「新縮900年表」では、垂仁90年は302年、垂仁99年は303年である。田道間守が遣わされたのは2年で行き帰りした近くの国である。垂仁紀は69年延長されており、遠くはるかな常世国に10年かけて行って来たという物語が出来たのであろう。


垂仁3年(276年)には「新羅の王子・天日槍が来た。持つて来た珠・槍・刀子・大刀・鏡を但馬国の神宝とした。一説によれば、天日槍は但馬国の出石の人、太耳の娘を娶って、但馬諸助を生んだ。諸助は但馬日楢杵を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守を生んだという。」とあり、田道間守は天日槍の玄孫(やしゃご)としている。しかし、渡来してきたのが垂仁3年(276年)で、田道間守が常世国に遣わされたのが垂仁90年(302年)とすると、天日槍が出石の太耳の娘を娶り生まれた子供が田道間守と考えられる。それならば、田道間守が遣わされた常世国は新羅国であったと考える。『三国史記』新羅本紀基臨王3年(300年)には、「倭国と国使いを交換した。」とあることと、ほぼ一致している。Z485-2.中嶋神社.png


田道間(タジマ)守は新羅の王子・天日槍の子孫であり、但馬(タジマ)国が本拠地である。但馬国、兵庫県豊岡市三宅に、田道間守を祭神とする中嶋神社がある。橘を持ち帰った田道間守をお菓子の神様「菓祖神」として、全国の菓子業の人々が崇拝している。平安時代に撰述された『国司文書』には、中嶋神社は推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。


Z485-3.茶すり山古墳.png中嶋神社の南に直線距離で5㎞に出石神社があり、祭神は新羅より渡来した王子の天日槍である。出石神社の南に直線距離で15㎞の所に茶すり山古墳がある。兵庫県朝来市和田山町の茶すり山古墳は直径90mの円墳で、近畿地方では富雄丸山古墳に次ぐ規模の円墳である。茶すり山古墳の第一主体部からは7点の盾(鋸歯文アリ)、3面の鏡(盤龍鏡・神獣鏡・連弧文鏡)、2本の蛇行剣が出土している。茶すり山古墳は但馬国にあり、田道間守命の子孫と関係があると思われる。茶すり山古墳の築造年代5世紀前葉とされている。茶すり山古墳からは三角板革綴短甲・長方板革綴短甲が出土しており350~470年の範疇にある。茶すり山古墳からは円筒埴輪が出土しているが、その型式が何であるかの報告書は手にいれていない。円筒埴輪の写真みられる黒斑とスカシ孔からⅡ式かⅢ式の280~380年の範疇であることが分かる。これらより、茶すり山古墳の築造年代は350~380年に絞ることが出来る。


富雄丸山古墳から出土した盾形銅鏡の出土はないが、茶すり山古墳からは盾が7点も出土しており、盾形銅鏡にある鋸歯文の文様がある。盾形銅鏡の文様にあるダ龍鏡はないが、龍をモチーフとした倭製の盤龍鏡が出土している。そして、富雄丸山古墳の蛇行剣ほど大きくはないが2本の蛇行剣も出土している。大型の円墳、鋸歯文のある盾、龍を龍をモチーフとした倭製の鏡、出土例が全国で85本しかない珍しい蛇行剣など共通点が多く、富雄丸山古墳の年代が280~320年頃、茶すり山古墳の年代が350~380年と築造年代は2~3世代異なるが、富雄丸山古墳と茶すり山古墳の間に、何らかの関係性があるように思える。


私は、富雄丸山古墳の被葬者を田道間守と想定している。富雄丸山古墳は垂仁天皇陵(宝来山古墳)の西南西4㎞にあり、田道間守が亡くなったのは垂仁天皇の崩御とそれほど変わらない時期であったことから「天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」という故事が生まれたのかもしれない。また、富雄丸山古墳の出土品と但馬国にある茶すり山古墳の出土品に類似点があるのも納得できるし、両者が大型の円墳であることは、新羅の王子・天日槍の子孫で4世紀代の新羅の墳形を意識してのことかも知れない。「新縮900年表」では垂仁天皇の崩御は303年、富雄丸山古墳の築造年代は280~320年頃とピッタリ一致している。


 


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74-16.富雄丸山古墳の盾形銅鏡は統一国家の象徴 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

 

Z496.盾形鏡.png 2023年1月25日奈良市教育委員会と県立橿原考古学研究所は奈良市にある日本最大の円墳・富雄丸山古墳(直径約109m)の造り出し部にある粘土槨(埋葬施設)から、盾形銅鏡(長さ60cm、幅30cm)と、蛇のように曲がった蛇行剣(長さ2.3m、幅6cm)が出土したと発表した。盾形銅鏡はと過去に例のない形で、出土した鏡の中では最大である。、蛇行剣は今まで出土した85個の中で、最も古くかつ最大であるという。富雄丸山古墳の古墳年代は古墳時代前期、4世紀後半であるとされている。しかし、1年前に奈良市が制作した動画「日本最大の円墳 富雄丸山古墳」では、富雄丸山古墳の古墳年代は佐紀古墳群にある佐紀陵山古墳と同じ年代の4世紀中頃としている。また、奈良市教育委員会が2021年3月に出版した「富雄丸山古墳調査 第1次~3次」では、富雄丸山古墳の年代は、埴輪編年Ⅱ期の4世紀中頃~後半とある。富雄丸山古墳の築造年代は、いったいいつ頃なのであろうか?


Z499.古墳時代区分.png円筒埴輪の編年を確立した川西宏幸氏は、1988年に著書『古墳時代政治史序説』に「円筒埴輪総論」の論文を掲載している。この論文の円筒埴輪編年において、畿内大和の円筒埴輪Ⅱ式のトップが富雄丸山古墳、二番目に日葉酢媛陵(佐紀陵山古墳)が掲載されている。そして、川西宏幸氏は円筒埴輪Ⅱ期の年代をほぼ4世紀後葉としている。この年代が決められた頃は、箸墓古墳の年代は320年頃と考えられていた。近つ飛鳥博物館2013年発行の「考古学からみた 日本の古代国家と古代文化」では、箸墓古墳を含む最古の前方後円墳の出現時期を3世紀中葉すぎとみる考え方が主流になりつつある記載している。そして、円筒埴輪の編年の解説では、円筒埴輪Ⅱ期は4世紀中葉としている。図499は、私が9092基の古墳の遺構・遺物から導き出した、埴輪と須惠器の型式編年表である。私は埴輪Ⅱ式()を280年から340年と捉えている。


山口県柳井市にある柳井茶臼山古墳は墳長90mの前方後円墳である。この古墳から直径44.cm(面積1575㎠)のダ龍鏡が出土している。古墳の年代は4世紀末とされているが、倭製鏡(280~600年)と器台型埴輪(250~320年)から、私は、柳井茶臼山古墳の年代は280~320年と判定している。富雄丸山古墳と柳井茶臼山古墳は、年代を決定した要素は違うが、築造年代は同じ頃である。富雄丸山古墳の盾形銅鏡の面積は1800㎠で柳井茶臼山古墳のダ龍鏡の1.14倍に過ぎない。両者は同じ技術で、同じ時期に造られた鏡と考えられっる。富雄丸山古墳の年代も280~320年頃であると考える。富雄丸山古墳の年代を300年頃とすると、「新縮900年表」でみると垂仁天皇が崩御し景行天皇が即位する頃の古墳であることが分かる。


盾形鏡のデザインは何から発想されたものであろうか。古墳の棺の外側あるいは内側におかれる鏡は、悪霊から被葬者を守るものと言われている。奈良県天理市の黒塚古墳は33面の三角縁神獣鏡を出土した前期古墳であるが、三角縁神獣鏡の全てが棺の外側に被葬者を守るように立てかけられている。古墳前期の前半から鏡が盾であるという概念があったように思われる。私が特に注目するのは、盾形の周濠が登場するのが300年頃から登場することである。盾形の周濠は悪霊から古墳を守るものと言う意味合いがあるように思える。盾形の周濠は古墳年代を決める遺構・遺物の152の要素に入れていなかったが、今回調べてその重要性を初めて認識した。盾形鏡が出土した富雄丸山古墳の築造年代と重なることが興味深い。


Z495.矛と盾の配布.png景行天皇のあとを継いだのが第四子の成務天皇(335~341年)である。成務5年(339年)には「諸国に令して国郡に造長を立て、県村に稲置をおき、それぞれ盾矛を賜って印とした。」とある。9092基の古墳の資料の中で、鉄矛が出土した古墳は246基ある。鉄矛が出土した古墳の中で時代区分が明らかでを選び出し、その中で盾と鏡が出土した古墳数を調べたのが右表である。盾は木製枠に革を張り漆を塗って作られており、有機質のものであるので残存することが低いこともあろうが、表からは、矛と盾を配布されたようには見受けられない。古墳前期においては、矛が出土した古墳の90%から鏡が出土している。鏡が盾であるという概念があり、成務天皇が地方の首長に配布したのは矛と盾ではなく、矛と鏡であったと思われる。歴史学者の間では、成務天皇の存在すら比定する方が多いが、成務天皇は実在し、成務朝には統一国家の基盤が出来上がっていたように思われる。富雄丸山古墳の盾形鏡は統一国家の象徴である。


 


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74-15.景行天皇の時代に統一国家の基盤が出来上がる [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

景行天皇は景行4年(307年)に美濃に行幸し、景行12年(308年)に熊襲が背いた筑紫とに向かった。襲の国を平らげると筑紫の国を巡行し 、景行19年(315年)に都に帰っている。そして、景行25年(317年)に武内宿禰を遣わして、北陸・東方の地形、人民の様子を視察させている。武内宿禰は2年後に帰り東国の蝦夷について報告し、土地は肥えており広大であると攻略することを勧めている。景行27年(319年)に熊襲が背き辺境を侵したので次男の日本武尊を筑紫に遣わし、熊襲を討たせている。翌年、日本武尊は熊襲を平らげたことを奏上した。


Z493.日本武尊東征経路.png景行40年(321年)、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺したので、日本武尊は征夷の将軍に任じられた。纏向の日代宮を出発した日本武尊は寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛命から天叢雲剣を授かった。駿河では賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、迎え火をつくって難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき、暴風が起こり船は進まなかったが、皇子につき従ってきた弟橘姫が海に身を投じ、嵐はおさまり無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回り、玉浦を回って蝦夷の支配地である陸奥国に入っている。蝦夷の首領は竹水門で防ごうとしたが、王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊はその首領を手下にして蝦夷を平らげている。


奥国は福島県・宮城県・岩手県・青森県を指すが、日本武尊が何処まで北上したか葦浦・玉浦・竹水門の比定には諸説あり定かではない。『日本書紀』井上光貞編纂(1987年)では、図293に示す「日本武尊東征経路図」では宮城県石巻市に流れ込む旧北上川の支流の江合川までが経路として描かれている。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年(324年)に伊勢能煩野で病死している。


宮城県の大崎市には墳長100mの前方後円墳、青塚古墳がある。また、仙台市には墳長110mの前方後円墳、遠見塚古墳があり、南に隣接する名取市には墳長168mの前方後円墳、雷神山古墳がある。これらの古墳からは、底部穿孔(270~360年)の二重口縁壺(270~370年)が出土しており、古墳年代は270~360年である。前方後円墳は大和王権の象徴であり、4世紀の中葉には陸前までその覇権がおよんでいる。これは日本武尊の東征が物語化された面はあるが、史実であることをしめしている。

 

 

Z494.入の沢遺跡.png2014年に江合川の北側で岩手県との県境に近い宮城県栗原市の入の沢遺跡で、総長330mにおよぶ大溝と竪穴建物跡39棟が出土した。竪穴住居の大半が焼かれていたが、住居跡からは小型の高杯・鉢や大型の二重口縁壷などの土師器、珠文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡片などの鏡、刀剣・鏃・斧・鋤などの鉄製品、ガラス製の小玉、碧玉製や滑石製の勾玉・菅玉、水晶製の棗玉、琴柱形石製品、水銀朱などの、近畿文化の影響を受けた古墳前期の遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は出土土器が上総の布留2式併行期で4世紀後半と見られている。私の編年でも、珠文鏡(310~570年)と二重口縁壷(270~370年)から入の沢遺跡の年代を310年〜370年と割り出した。入の沢遺跡は蝦夷に対峙する最前線の砦であったと思われる。入の沢遺跡が焼き討ちにあっているのは、蝦夷の反撃にあったのであろう。

 

 



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74-14.古墳の年代決定に「データサイエンス」 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「空白の世紀」を解き明かすには、考古学的には古墳の年代決定の精度を上げなければならない。考古学の編年は、遺構・遺物の型式と地層累重の法則(地層の下のもほど古い)より、その年代の前後関係が決められている。それは緻密で精緻ではあるが暦年代(絶対年代)には弱いという欠点を持つ。近年、その編年に年輪年代測定、炭素14年代測定を取り入れ、暦年代も精緻となってきている。因みに、2006年3月に宇治教育委員会と奈良文化財研究所は、宇治市街遺跡から出土した須恵器が最も古い型式の「大庭寺式」で、一緒に出土した板材の年輪年代測定、炭素14年代測定で389年と導かれたと発表し、須恵器の登場を5世紀前半としてきた定説を覆している。また、2009年5月には国立民俗歴史博物館が、最初の大型前方後円墳とされている箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物をAMS法による炭素14年代測定し、土器の編年とマッチングさせ、箸墓古墳の築造年代を240年から260年であると確定し、古墳時代の始まりは4世紀の初めとされていた通説を覆した。年輪年代測定、炭素14年代測定は古墳の年代決定に有用な手段であるが、古墳出土の遺物においては、直接測定できる資料が少ないのが難点である。

 

古墳の年代は遺構・遺物の編年より決められる。遺構・遺物の編年は○○年以後~△△年以前と、登場する時期と消滅する時期が分からなければならない。遺構・遺物が始めて登場する時期は、2~3個の同じ資料があればよく、年輪年代測定、炭素14年代測定はその年代を精緻に示してくれる。しかし、その遺構・遺物が消滅する時期を求めるのは簡単ではない。「ある事実・現象が全くない」ということを証明することは、非常に困難で「悪魔の証明」と呼ばれている。消滅する時期を決めることは多くのデータから紐解くしか無いのである。

 

今年2月3日の日本経済新聞によると、今春の大学では「データサイエンス」系学部・学科の新設ラッシュであるそうだ。「データサイエンス」とは、数学や統計学、機械学習、プログラミングなどの理論を活用して、莫大なデータの分析や解析を行い、有益な洞察を導き出す学問のことことだそうだ。私はアマチュアであるがゆえに、古墳の年代を決める遺構・遺物(古墳形態・埋葬施設・副葬品)の編年を行おうとすれば、入手出来るのはデータしかない。私は10年前頃から「データサイエンス」的概念で、古墳の編年に取り組んでいる。

 

古墳編年の最初の取り組みは、2014年11月の「42.古墳時代の編年」に掲載したが、データベース化した1739基の古墳について39要素(遺構・遺物)の有無でコード化した。また、円筒埴輪型式・須恵器型式を基に要素の共伴関係を調べることにより、10年単位で遺構・遺物の編年表を作成して、それをコード化した。そして、古墳のコードと遺構・遺物の編年コードから、パソコンで瞬時に年代が決められるソフトを作り上げた。古墳の年代をパソコンソフトで決めて行く過程で、編年表の39要素の間に矛盾があれば、年代が決定出来ない(年代幅がマイナス)古墳が出て来る。そのたびに編年表を修正して、やり直すという作業を繰り返し、編年表の精度を高めていった。2018年2月の「63.古墳年代をエクセルで決める」では、パソコンのエクセルソフトを使い、古墳出土の遺構・遺物の編年表から古墳年代を決めるソフトを公開した。この時、対象とした古墳は3294基、遺構・遺物は143要素であった。そして、「74.記紀で解く空白の世紀の150年」を記載している資料は、古墳9092基(前方後円()墳:6243基)、遺構・遺物は152要素である。

 

9092基の古墳データーで、遺構・遺物の編年が矛盾し年代が決定出来ない(年代幅がマイナス)古墳はたったの25基(舶載異常1基、異物混入6基、新古混合1基、同名別種8基、伝世3基、型式判定?6基)であり、152種の遺構・遺物の編年に整合性が取れていることを示している。なお、横穴式石室には追葬の須恵器が置かれている場合が多く、その場合は一番古い型式の須恵器を年代判定に用いている。この遺構・遺物は、古墳時代最初の大型前方後円墳が箸墓古墳で、その年代が240~260年であることをベースにしており、「箸墓250編年2003」と名付けている。本節末尾にその編年表を示す。

 

古墳研究の第一人者であられる近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏は「畿内における大型古墳の編年」を作成されている。その最新版(左図は平成30年2月の講演会で配布されたもの)に掲載された古墳のなかで、「箸墓250編年」で編年した年代幅30年以内に比定出来た前方後円墳について、「箸墓250編年」で編年した古墳年代を軸に、白石氏の古墳年代をY軸にプロットし、両者の年代を比較したのが右図である。白石氏の年代は前方後円墳のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値としている。赤線は白石氏の古墳年代をPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)であり、白石氏の古墳年代観である。黒線は私の古墳年代観と一致したことを示す45度の線である。

 

Z492.白石古墳年代.png

白石氏の回帰直線(赤線)の勾配と私の年代観を示す45度の勾配はよく似ている。これは、白石氏も私も、箸墓古墳の年代が240~260年であることを認めていることと、私の遺構・遺物の編年表のベースになる円筒埴輪型式・須恵器型式の編年は、近つ飛鳥博物館が作成した表を参考にして作成しているからであろう。ただ、古墳時代の始まり250年近辺で30年、古墳時代の終末の600年近辺で15年、私の方が古墳を古い時代に考えている。これは、円筒埴輪Ⅰ式の年代幅を近つ飛鳥博物館は83年間に対し私は20年間、円筒埴輪Ⅱ式の年代幅を近つ飛鳥博物館が33年間に対し私は60年間としていることから生じたものである。どちらが正確であるかは、何時の日か年輪年代測定、炭素14年代測定が答えを出してくれるであろう。

 

Z492.箸墓250編年2023.png

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74-13.出雲・薩摩に何故、前期前方後円墳が無いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z487.前期前方後円墳.png卑弥呼・壱与を共立した倭国連合の国々は、吉備・出雲以西の中国・九州(除く大隅)であった。吉備(備前・備中・備後)は壱与の出自の国で、初期の大和王権に大きな影響を及ぼし、また多くの前期前方後円墳を築造し、大和王権の象徴である三角縁神獣鏡・三種の神器も出土している。一方、出雲は神武天皇の皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命の出自は出雲であるばかりか、大和王権と深く関わりがあったとされる大神神社は、三輪山を御神体として、主祭神を大物主大神とし、大己貴命と小彦名命を配祀する。これらの神は出雲系である。

 

それなのに、出雲には前期前方後円墳が一基も存在していない。出雲の前期の古墳から三角縁神獣鏡は3面出土出土しているが、何れの古墳も方墳である。中でも雲南市の神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に貢献した年の「景初三年」の銘があり超一級品である。一方、大和王権に中世を誓う三種の神器が出土した前期古墳は無い。これらからすると、大和王権は出雲に敬意を払っていたが、出雲はそっぽを向いていたのであろう。それは、吉備が出雲に代わって大和王権に大きな影響力を持ったことへの“やっかみ”であったのであろう。

 

Z492.神原神社古墳鏡.png

崇神60年(265年)、天皇が出雲大社に納めている神宝を見たいと言われ使いを出雲に遣わされた。神宝を管理していた出雲臣の先祖の出雲振根は筑紫に行って留守であった。弟の飯入根が皇命を承り奉った。振根は筑紫から帰り、「何を恐れて神宝をたやすく朝廷に差し出したのか」と弟を責めた。この恨みもあって、兄の振根は弟を殺した。朝廷はこの事を知り、吉備津彦と武渟河別を遣わせて振根を殺した。出雲臣はこのことを恐れて出雲大神を祭らなかったが、「出雲の人が祈り祭る鏡が水底に沈んでいる」と子供が歌っているのを神の啓示であると皇太子が天皇に進言し、天皇は鏡(神宝)を出雲大社に祭らせた。この鏡が雲南市の神原神社古墳出土の「景初三年」銘の三角縁神獣鏡であったのかも知れない。古墳中期には出雲でも前方後円墳が築造されている。

 

薩摩の話しに変わるが、『書紀』の神代では、兄の火闌降命と、弟の彦火火出見尊が海と山の幸の争いをして、弟は海神の援助を得て弟を降参させ、兄は弟に「今後、私はお前の俳優(古事記:昼夜の守護人)の民となる」と約束をしている。彦火火出見尊の建国したのが日向の邪馬台国で、火闌降命は阿田君小橋(古事記:隼人阿多君)の祖とあり、火闌降命が建国したのが薩摩の投馬国と考える。卑弥呼の時代の薩摩は投馬国で五万戸の大国であったが、倭国連合の盟主国である邪馬台国には頭が上がらなかった。

 

まして、卑弥呼の息子の磐余彦尊が東征し大和国を建国し、その大和国が崇神天皇(壱与)に代わり倭国の盟主国になると、投馬国(薩摩)にとっては面白くない。薩摩に大和王権の象徴である前方後円墳が古墳時代を通じて築造されなかったのはこのためである。なお、景行13年(309年)に、景行天皇は蘇の国(狗奴国)を平定している、狗奴国のあった大隅には前期の前方後円墳は無いが、中期以降の前方後円墳はあり、大和王権に服従したのであろう。景行天皇は大和王権に服従しない親戚筋の投馬国は、刃向かうことが無い以上、平定することはしなかったのである。


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74-12.群馬に何故、前期前方後円墳が多いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z490.前橋八幡山古墳.png『書紀』崇神48年(264年)には、「豊城命(崇神天皇の皇子)に東国を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の先祖である。」とある。「上毛野」は後の上野国で群馬県、「下毛野」は後の下野国で栃木県に相当する。前期古墳の分布を見ると群馬県に前期の大型の前方後円墳が多数あり、最も早い年代は前橋市の前橋八幡山古墳(前方後方墳、墳長130m)で、粘土槨(270~470年)と特殊器台(250~300年)から年代は270〜300年である。この前方後方墳が豊城命の墓であると考えると、年代的に合っている。『書紀』崇神48年の豊城命の話は史実であったと思われる。

 

景行55年(329年)、「豊城命の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至って病で亡くなった。東国の人民は王の来られなことを悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。」とある。「春日の穴咋邑」は、奈良市横井にある穴栗神社の地であるとの説もあるが、この地では彦狭島王は東国の任地に旅立っていないことになり、奈良と群馬では、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは作り話になる。

 

長野県佐久市春日には、彦狭島王が亡くなった「春日の穴咋邑」ではないかとの伝承がある。佐久市春日は昔は軽井沢町と同じ北佐久郡に属する春日村であった。律令制度が整備 される以前の原初的な東山道は「古東山道」と呼ばれている。春日村は古東山道のルート上にあり、軽井沢町の入山峠を経て群馬県高崎市に向かう。彦狭島王が佐久市春日で亡くなったのであれば、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは真実味を帯びてくる。

 

Z491.元島名将軍塚古墳.png群馬県高崎市元島名町に島名神社がある。この神社は墳丘全長95メートルの前方後方墳の将軍塚古墳の前方部頂上に鎮座している。この神社の創立年月は不詳であるが、祭神は彦狭島王である。将軍塚古墳からは石釧(270~370年)と底部穿孔壺(270~360年)が出土しており、年代は270~360年である。年代的には将軍塚古墳が彦狭島王の墓という可能性を残すばかりか、祖父豊城命の墓と考えられる前橋八幡山古墳と同じ前方後方墳であることに興味が沸く。『書紀』景行55年の彦狭島王の話も史実と思われる。


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74-11.吉備に何故、前期前方後円墳が多いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

最も古い大型前方後円墳である箸墓古墳の築造年代が240~260年と歴博により比定された。『書紀』には箸墓は崇神9年に造られたとあり、「新縮900年表」では259年にあたる。『晋書』起居注には、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したとある。これらより、崇神天皇=御間城姫=壱与という私の説が証明されたと考えている。それでは、壱与の出自について考えてみる。

『魏志倭人伝』には「卑弥呼が死んだので、続いて男王が立ったが国中が承服せず戦が起こり、千人余の人が亡くなった。そこで卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(台与)を王に立てて国中が治まった」とある。このことを私は次のように解釈している。神武天皇が東征に成功し、241年に大和国を建国した。247年頃に卑弥呼が亡くなった後、神武天皇が倭国王として立つたが、大和国が強国になることを恐れた倭国連合の国々は承服せず戦が起こった。そこで神武天皇は、卑弥呼の宗女である13歳の壱与に大和国の王位を譲り、倭国連合の女王(崇神天皇)として立てることにより国中を収めた。なお、神武天皇は大彦命として、崇神天皇の後ろ盾となって活躍したと考えている。

 

壱与は、卑弥呼(玉依姫)の宗女(長男の娘)で、五瀬命の娘ということになる。五瀬命は弟の磐余彦尊と一緒に、日向より東征に出発して、その途中235年から3年間吉備に滞在した。その間に、吉備国王の娘との間に出来た子が壱与であると考える。崇神天皇の即位は251年であり、五瀬命が吉備を離れて14年目のことであり、壱与の年齢13歳と合っている。『書紀』では崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ、皇后は御間城姫で天皇も皇后も同じ「御間城」の名が付いている。「御間城入彦」は「御間城姫」の入り婿であることを示している。251年に即位した崇神天皇(御間城姫)は女天皇であった。『書紀』は、神武天皇を「始駆天下之天皇」と称し、崇神天皇を「御肇国天皇」と称している。神武天皇が大和国を建国し、崇神天皇の代になって大和国が倭国の盟主国となったのである。

 

Z489.浦間茶臼山古墳.png崇神天皇の出自の吉備が初期の大和王権(ヤマト王権)に大きく大き影響を与えたのであろう。前方後円墳(規模・数)、三角縁神獣鏡、三種の神器の3要素から見て、奈良盆地と大阪府及びその周辺に次いで吉備が多いこと、また大和に存在する初期の前方後円墳には吉備発祥の特殊器台・特殊壺が据えられているのがその証拠である。吉備の最古の大型前方後円墳は岡山市の浦間茶臼山古墳(墳長138m)で、都月型埴輪(250~270年)と三種神器(260~570年)から260~270年に築造されたと考えられる。


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